仲見満月の研究室

元人文学系、現・文理総合学系の「真っ白」博士が大学院とその周辺問題を考える

<岩国旅行記>はしがき.錦帯橋を通じた山口県岩国市と浙江省杭州市との繋がり

不定期に、過去の記録整理をしています。とっておいたメモの中に、先週5日、G20後に開催された日中首脳会談の時のものがありました。その後の記者会見でされた質問に対し、安倍首相が地元・山口県サミット開催地となった浙江省杭州との歴史的な繋がりを説明しました。詳細は、下の「レコードチャイナ」のページを参照されてください。中国のネットユーザーの反応も分かります。

www.recordchina.co.jp

 

実は、安倍首相の記者会見をリアルタイムで私は見ていました。その時のツイートを入れつつ、後日、調べたことや思い出したことを説明として書いていきます。

上の「レコードチャイナ 」の記事によれば、中国の杭州市と岩国市は、姉妹橋縁組を結んでいるとのこと。 f:id:nakami_midsuki:20160915224830j:plain

(イメージ画像:桜の時期の錦帯橋 in 岩国)

 

 ツイートでは「岩国の領主・吉川氏の殿様」としています。現在の日本史関係者やファンの人たちは、「岩国藩主」とすることが多く*1、この時に病に臥せっていたのは吉川広嘉です。はい、1600年9月15日(今日ですね)の「関ヶ原の戦い」において、西軍の毛利氏の重臣でありながら、東軍の徳川氏と密約を結ぶ等の裏で動いた人物かつ初代岩国藩主・吉川広家の二代後の人物です。

 

吉川広家が「関ヶ原の戦い」前後にあれこれ動き、毛利氏は取り潰しを逃れたものの長門・周防の2国に領地を替えることとなりました。ここらへんの複雑な事情は、読者個々で調べて頂くとしまして、とにかく、江戸幕府成立後、しばらく吉川氏は主君に当たる毛利氏にいい思いは抱かれていなかったようです。そのあたりのことが絡んでいるのか、防衛上の理由もあったのか、とにかく吉川氏は周防の岩国に領地を与えられ、居住地としました。

 

居住地となった岩国は城下町となるのですが、そこには吉川氏の「岩国城」(後に幕府が出した一国一城の令のため、城としては扱えなくなる)のある横山と城下町の間に、錦川が流れていました。おそらく、防衛上の理由から錦川を堀の代わりにしていたんでしょう。ですが、この川は台風や大雨のたびに暴れ、架かっていた橋がよく流れて破壊され、藩政に少なからず損害を与えることになります。

 

岩国初代藩主の広家、二代藩主の広正ともに、錦川に架ける流れにくい橋をどうにかして建設しようと、取り組みますがうまくいきませんでした。そうこうしているうちに、第三代の広嘉の時代になりました。持病を持つ広嘉の治療のため、長崎から連れてこられたのが滅亡した明王朝の遺民で帰化僧の独立(どくりゅう)でした。この独立さん、故郷が杭州で、たまたま故郷の話で西湖の話が広嘉の耳に入ります。ぜひ、西湖のことを知りたいと思った第三代藩主は『西湖志』を求め、長崎から飛脚を使ってこの地方志を取り寄せました。そういうわけで、独立さんはこの本を持っていたわけではなかったんですね。すみません、訂正致します。

  

 さっそく、取り寄せた『西湖志』を開くと、広嘉の目にユニークな形の橋が目に入りました。そこには、複数の小島にかかる小さなアーチ橋が描かれていました。よし、錦川に島を建設して、西湖のアーチ橋のような構造で橋を架ければ、錦川の問題は改善するだろう!と考えた藩主は、職人を集め、錦帯橋を架けたのでした*2

 

錦帯橋が架かったものの、まぁ、本州の西端地域ということで、台風のたびに橋が流されることがあり、現在まで幾たびも錦帯橋の修理や架け替え工事は実施されているそうです。加えて、独特の構造の橋ということもあり、先のツイートにある橋研究者の橋本先生(仮名)によれば、錦帯橋は技術伝承目的で定期的な架け替え工事が行われているそうです。

 

 

実は、記録を整理していたところ、過去に岩国の錦帯橋とその周辺を散策していた日記が出てきました。せっかくなので、近々、ここのブログに載せたいと思います。 

*1:日本史関係者の友人によると、関ヶ原の戦いの徳川方と結んだ密約、その他のせいで岩国は明治維新後、新政府によって「やっと「藩」にされる」まで、「藩」にはなれなかったらしいとのこと:岩国藩 -Wikipedia

*2:以上、こちらを参照しました:【錦帯橋】岩国市公式ホームページ>歴史>第一章

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