仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

あえて理系と文系を分けて私が考えている理由~司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』をもとに~

1.はじめに~今回のテーマの背景~

このブログの沢山あるテーマには、主に文系の院志望者に向けて、大学院進学に関する情報を提供して覚悟を決めてほしいこと、既に院生の人たちに向けては、研究生活や院卒後の進路を現実的に考えるための情報と具体的な生き方を知ってほしいこと、の2つがあります。ここで紹介した院卒者の中には、理系出身で文系的な仕事についている人その逆の人理系と文系の境界で仕事をしている人と、様々な生き方を紹介してきました。そもそも、理系と文系という分け方を私が前提としているのは、なぜでしょうか?というのが本記事のテーマです。

 

文系の中の地理学」で紹介した参考書の森雄介『暗記だけでいいと思っている人のための 地理のオキテ45』には、第32講義のラストには、

 理系が優れているとか、文系だから……とか卑下する風潮が受験生にときどき見られるけど、はっきりいおう!

 どっちがすごいとかどっちが大事とかじゃない!

 とあります。世の中を見ていると、確かに「理系が優れている」、「理系がかっこいい」とか、「私は文系なので数学が分かりません…」と会話の中で言う人はいます。そして、大学生の就職活動に関する業種分類や、経済産業研究所の年収比較の調査結果等では、理系出身か文系出身か、大まかに分けて考えています。どうも、現在の日本の世間では、こういった学生の進路、就業や労働に関する問題について、理系か文系かという大きく二分する方向で議論がされやすい状況があるのです。

 

そういった問題を議論する際、「理系と文系と、簡単に二分して考えてはいけない。理系も文系もまとめて、議論していかないといけないのでは?」という意見を言う人がいます。確かに、学問や職業の分野を二分して議論していくこと自体がナンセンス!という意見も、頷けるところはあります。少なくとも、そう簡単に分類して議論することの危険は、私も認識しております。

 

しかし、私がブログで敢えて理系、文系というふうに分けて、各分野の院卒者の仕事や生き方を紹介しているのには、理由があります。それは、戦中から大学の学問には理系・文系の大きな区分があったからです。しかも、その理系か文系かという属性によって、日本、後には台湾、そして朝鮮半島の未来を担う若者たちのその後の生死さえ、大きく左右される事情があったのです。

 

その事情については、次の本に書いてありました。

 

例えば、リンク先のAmazonによると(訂正しました)、本書は、

国家とはなにか──「古くは国主なき国」だった台湾は、その後、スペイン、オランダ、日本、そして大陸から来た“外省人”に支配され続けた。「奇跡」を経て、“本島人”の国になりつつある変革期の台湾を歩く。李登輝氏との対談を併録。

とあります。さらっと、台湾で民選初の中華民国元大総統・李登輝の名前が挙がっていますが、実は李登輝氏こそ、この理系と文系という大学の学問区分けによって、タイミングが悪ければ、その後の人生がなくなり、亡くなっていたかもしれない人だったのです。

 

 

2.『街道をゆく40 台湾紀行』をもとに「理系と文系」を議論する

李登輝氏の半生については、本書の「長老」の項に詳しく出てきます。この人の祖先は台北県の淡水あたりに住み、父親は農村には珍しい読書家だったそう。父親は教育熱心であり、当時、日本統治下にあった台湾にあった旧制中学に1923(大正12)年生まれの息子を入れました。やがて国立の台北高校文科に進学させます。

 

時は、太平洋戦争が苛烈になっていた頃。李登輝氏は、日本内地の京都帝国大学農学部で農業経済学を学んでいました。ちなみにWikipedia情報では、戦後は台湾大学農学部農業経済学科に編入学して、1950年代には奨学金を受け、アメリカの大学で農業経済学の修士号を取得し、その後もアメリカのコーネル大学で農業経済学のPh.D.(博士学位の一種)を得ています。そういうことで、李登輝氏もここで取り上げたい農業経済学の学者なんですね。

李登輝氏の学部時代に話を戻しましょう。1943(昭和18)年、日本では「学徒出陣」が行われていました。本書によると、

 当時、学生には徴兵猶予の特典があったが、第一線の兵員不足、とくに消耗のはなはだしい下級士官の不足が深刻になっていたため、その特典が文科系にかぎって取り消された。

 農学部は理科系ながら農業経済だけは文科だから、李登輝さんもこれに該当した。

 そのこと私は自分が入営することにかまけて台湾出身の学生も兵隊にとられたとは、知らなかった。徴兵の義務は、従前どおり、日系の者にのみあるとおもっていた。

 が、意外にも、李登輝さんも時代の隊列のなかにあった。

というわけで、当時、20歳の李登輝氏は日本人として「学徒出陣」し、しかも上官に二等兵希望を出したため(Wikipedia情報)、太平洋戦争の第一線に送り込まれていたら、彼が歴史に名を残す政治家にはなれていなかったと思われます。

 

上記の学生の徴兵猶予を改めて読み、「学徒出陣」以前の特典を考えると、「第一線」の兵員、つまり「消耗のはなはだしい下級士官」として、学生の兵士は送り込まれていなかった、と考えられる。しかし、戦争が進んだことによる兵士不足によって、「学徒出陣」は実行された。

 

ここで注目すべきことは、1943年の当時、農学部は「理科系」、今でいうところの理系の学部でした。私が小耳にはさんだところによると、当時、「理科系」の学部にいた学生には、兵器や情報収集機器の開発者として、戦争の後方部隊に配置され、技術部門の将校として「出陣」していた人もいたそうです。誤解をおそれず言えば、「「理科系」の人材は戦力の増強に必要であり、後方支援にいてもらおう。代わりに、「文科系」の学生に前線へ行って犠牲になってもらおう」という、意図が召集する側に見え隠れしているように思います。実際、当時の東洋学者で、文科系の弟子を戦場に見送ったため、優秀な後継者を多数失ったことを嘆いていた人がいたらしい。理系の人材が後方に配属され、文系の学生が戦場に送られたという事情は、当時、あったのだと言えそうです。

 

もし、李登輝氏が農学部で菌類や肥料といった研究をしていて、理系の専攻にいたら後方配属で済んだでしょう。しかし、彼のいたのは農業経済は、当時も「文科」系と認識されていた、今でいう文系の分野でしたから、彼は前線に送られる予定の兵士となったのです。経済学といえば、現在の日本でも文系に挙げられることの多い分野ですから、戦時中から「経済は文系科目である」という一定の認識が、召集令状を出す側にもあったと推測できます。「●●学は文系分野である」という私たちの現在の認識は、少なくとも、十数年前にはあったと言えそうです。

 

つまり、現在にも通じる理系・文系という分野分け、およびその下の経済学のような細かな分野カテゴリーの理系・文系の属性に対する認識は戦時中には既にあり、そのどちらに所属しているかで、戦死する確率が大きく上がっていた、ということが考えられるのです。もっと言えば、当時、理系か文系かという専攻の選択が、学生一人一人の生死を大きく左右していたと言えるでしょう。

 

さらに、当時、日本の統治下にあった朝鮮半島や台湾といった植民地の若者は、「日本人」見なされ、徴兵されて「日系の」日本人と共に、戦場へ送られていたそうです。その徴兵された人の中に、台湾出身の若き李登輝氏も含まれていました。

 

 

3.「台湾系」学生兵士および李登輝氏のその後は?

結果として、李登輝氏はサバイブして、台湾で中華民国民選初の大総統になります。それまで、彼に何が起こったのでしょうか。

 

当時の日本軍は、陸軍関係の台湾出身者は一度、台湾に送られて軍事的な教育と訓練を施すことになっていたという。その台湾出身者の中に、司馬良太郎は李登輝氏も含まれていたと考えている。彼ら「台湾系」の学生新兵たちが船で輸送されるのを、祖先が台湾出身で(自身は神戸生まれ)の、当時は大阪外国語学校(現在の大阪大学国語学部)の助手職にあった華僑・陳舜臣が、神戸の埠頭で見送ったという。陳舜臣は適齢外で徴兵はされなかったが、徴兵された親友の楊克智と別れの挨拶をするのに、やって来ていたそうです。

 

神戸港を出帆した船は、北九州の門司で新兵たちを下船させ、彼らは別の船に乗り換えることになりました。自分たちを乗せる次の船を待つ間、時間の制限付きで自由行動が許されて、その時、音楽好きの楊克智は門司のレコード喫茶に入ります。そこで利くのに二時間以上かかるというメンデルスゾーンの曲を楊克智は注文し、かけられたレコードの音を一人で聞き始めます。彼が曲に浸るころ、前ぶれなしに新しい船はやって来ました。輸送指揮官が新兵たちを集めたところ、単独行動中で長~い曲を聴いていた楊克智にだけ連絡がつけられず、結局、その指揮官は新しい船を諦めました。

出ていったその船は、「五島列島沖だったか」でアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈されてしまいました。あとから考えてみれば、つまり、「春秋の筆法を借りれば」、楊克智の音楽好きが台湾系の学生新兵全員を救ったことになります。

 

とはいえ、李登輝氏はその後、台湾に行って基礎訓練を受け、日本に戻ってから名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えた(以上、Wikipedia情報)ようです。日本の敗戦後、1946年に李登輝氏は台湾に戻って、先述のとおり、台湾大学に編入学して、再び農業経済を学びます。翌年、二・二八事件(Wikipediaの該当記事によると、日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)の大規模な抗争)が台湾で起こり、日本と縁の深い李登輝氏が粛清されることを恐れた知人は、「この人を失ってはならない」と感じ、李登輝氏を自宅の蔵に匿ったそうです。そうして数々の危機を乗り越えた彼は、農業経済学者から政治家に転身して、波乱万丈の人生を送りました。

 (*二・二八事件の詳細、および本省人外省人の定義に関しては、諸説あります。本記事では、これらの項目についての詳しい記述を主旨としていないため、極力、簡潔な説明にとどた結果、上のような説明となりました。ご理解ください。)

 

 

李登輝氏は、文系の学生兵士として戦場に送られる前、台湾に戻る途中で命を落とす危険があり、その後、終戦を迎えて台湾に戻ってからも二・二八事件で殺される恐れがあったという、人生の序盤で幾度も生命の危機に直面した人でした。偶然が重なり、また彼の存在を認めてその生命が失われるのを惜しんだ人がいたことで、李登輝氏は生き残りました。何とも、彼は強運な方です。

 

 

4.まとめ

今回の話の本筋に戻りましょう。運がよく、生き残った李登輝氏でした。しかし、1943年当時、理系の農学部の中にあって、文系と認識されていた農業経済を彼が専攻していたことで、「徴兵猶予の特典」が適用されず、李登輝氏が戦場の第一線に送られる学生兵士の中に含まれていたことは、事実としてありました。台湾から日本へ戻って来たあと、運が悪ければ、名古屋から戦場に送られ、命を落としていたことは否めません。

 

そういうわけで、現在の我々が考える理系と文系という区分は、戦時中から存在し、その認識はこの二大区分の下の細かな各分野カテゴリー(経済学とか化学とか)にも分野次第で属性を割り振られ、その割り振りによって、専攻する学生兵士が戦争で送られる場所が大きく変わっていたのです。言い換えれば、この理系・文系の大きな分け方が、極端なことを言えば、これから先の未来を生きる若い世代の生死を、間接的な形で、大きく決定づける可能性が少なくないのです。

 

以上のような歴史的な経緯に基づく考えから、私はあえて理系・文系という大きな枠組みを提示した上で、大学院生に関する進路や生き方について、このブログで考えていこうとしています。誤解を恐れずに言えば、理系と文系の大区分が我々の将来を支配すると捉えて、院生のキャリアや人生を議論していこうとしているのです。戦時中の学問的な区分に対する認識が、現在も継続していると仮定して。

 

その上で、理系・文系の枠組みから更にもう一歩、踏み出して考えていこうとしています。戦時中の「学徒出陣」の徴兵基準には、理系と文系の下にある化学や経済学といった下位分野にも理系・文系という属性が付与されていました。そのことは、現在も同じだと言えます。ただし、時代が下ったことで、戦時中にはなかった分野は、現在の日本、そして世界に多く存在しています。その変化にともなって、その分野を選択した人たちの就職状況や生き方は、より多様化しているでしょう。だからこそ、私は理系・文系の区分のその下にある、下位分野ごとの状況を分析していく必要があると考えました。

 

理系・文系の大きな枠組だけで、大学院生の今後を考えていくのは、学問分野や業種の多様化が日進月歩な今日の世界において、適切ではないと思っています。そういうわけで、これからは、二大区分を前提としつつも、その下位部野ごとに、より細かな状況を検討する姿勢で、ブログを書いていくつもりです。

 

今回も、記事が長くなりました。 ここまでお読み下さいました皆さま、ありがとうございました。

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