仲見満月の研究室

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現代史を知るための「擬人化」世界史漫画~ゆげ塾『ゆげ塾の中国とアラブがわかる世界史』:アラブ編~

本書のレビューをお送りしています。

 

ゆげ塾『ゆげ塾の中国とアラブがわかる世界史』飛鳥新社、2015

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前回は、本書前半の中国編でした。中国史の概説ではなく、中国の今の外交や内政の特徴を、歴史に求めて解説した筋立てでした↓

naka3-3dsuki.hatenablog.com

後半は、より複雑で長いアラブ編であり、イスラーム世界を舞台とし、4人の男たちを通じて見た「アラブ民族国家の夢」の実現はできるのか?というストーリーになっております。

 

<今回の内容>

5.アラブ編の内容

この編では、アラブの人々の象徴である「アラブちゃん」という擬人化キャラクターを置き、その民族国家の樹立を夢見た4人の男を通じて、中東を中心にイスラーム世界の歴史をストーリー仕立てに解説しています。しっかり読むことで、どうしてシリア難民が欧州に向かおうとしているのか?ムスリムのコミュニティが、欧州に歴史的に存在している背景が、少しでも掴めるようになっています。

  

 序章「イスラム国とアラブの栄光」:

イスラム国(ISIS)の背景には、イラクの旧フセイン政権の高級官僚たちの合流があり、彼らが「バース党」というアラブ諸国(ヨルダン、シリア、イエメンなど)をまぎ、「アラブの栄光を取り戻す」ことを目指しているところから、アラブ編は始まります。

次に、そもそもイスラーム教の始まりはどのようなものであったか、説明しています。メッカの商人であったムハンマドが、「神の前の平等」を説き、貧富に関係なく、生活習慣(豚肉を食べるのはNGなど)を相互共有することで、格差に不満のある人々を満足させます。商人が説いたイスラーム教は、秤や貨幣の単位をととのえるといった詳細な商業ルールを定めていたため、富裕層に商売をしやすくなるというメリットがあったそうです。イスラーム商圏の拡大は、「聖戦(ジハード)」によって行われ、中東にはアラブ諸王朝が栄えます。

しかし、時代が下っていくと、元アラブ人の奴隷戦士に多くて武力に長けたトルコ系諸民族、徴税や行政の管理能力に優れたイラン系諸民族の人々がイスラム教に改宗。武力のトルコ人と政治力に優れたイラン人が組み、アラブ人と戦って支配下に置くようになっていきました。その最強の王朝がオスマン帝国オスマン朝トルコ)でした。最大領域が、東はアラビア半島カスピ海、南はリビア、北はハンガリー、西はチュニジアというこのオスマン帝国。領内で税を納め、一定の自治権を得ていたものの、近代の訪れもあって、アラブ人の中には自分たちの民族国家を樹立しようとする試みも出てきたのです。その中で、ムハンマド=アリー、フサイン=イブン=アリー、ナセル、サダム=フセインの4人の男を取り上げ、時代ごとに複雑な国際情勢を国・地域・民族の擬人化キャラクターによって、一目で分かるように状況を整理しています。

 

  第1章「ヨーロッパが恐怖した老人ムハンマド・アリー」 

18世紀末、ヨーロッパではフランス革命が発生。ナポレオンのいるフランス革命政府は、上司にエジプト遠征を進言。フランスと戦争状態だったイギリスは、産業革命の展開で、綿布の原料確保でインドと交易中であり、そのためには、自国から東地中海に船を出し、オスマン帝国領エジプトを経由してインドに向かう必要がありました。それを妨害しようとしたフランス(以下、仏)と、利害の一致から組んだイギリス(以下、英)とオスマン帝国。最初は仏の優勢でしたが、ナポレオンはクーデターの為、仏本国に帰国。残った仏軍は、英・オスマン帝国軍に敗北します。ここで欲を出した英は、エジプトをぶん取ろうと、オスマン帝国軍を裏切って攻撃!でも、オスマン帝国軍が勝利して、イギリスを追い出します。

 

このオスマン帝国軍の中に、若きムハンマド=アリーという、たたき上げの

イケメン傭兵隊長の姿がありました(本書でご確認ください)。

彼はフランス軍との戦いの中で頭角をあらわし、30代半ばでエジプト総督に就任。イギリスの再襲撃をにらんだオスマン帝国は、彼に大きな権限を与えます。近代化により、欧州列強に対抗できる独立国へとエジプトをしようと構想していたムハンマド=アリーは、権限をフルに使って、日本の明治維新と同じような近代化政策を実施(詳細は本書p.88)。さらに、オスマン帝国のトルコ系戦士支配階級「マムルーク」を大虐殺。エジプトの大半を占めていたアラブ人から、直接徴税する仕組みにするなど、中央集権化をあはかります。加えて、近代式の軍事訓練を平民に施す徴兵制を行うことで、武力的に劣る列強に耐える国を作ろうとしました。

 

ムハンマド=アリー自身はアルバニア人でしたが、エジプトのほとんどがアラブ人だったことから、「統一的なアラブ国民国家」を構想。その一歩として、遠征ではシリアを占領。さらに進撃してオスマン帝国首都・イスタンブールに迫ります(第一次エジプト・トルコ戦争。エジプト総督の裏切りに危機感を抱いたオスマン帝国は、長年の敵で、南下を狙ったロシア帝国と同盟します。そこに、ロシア帝国の南下を嫌ったイギリスが介入し、「シリアは、ムハンマド=アリーの領有だと認めましょう」という「キュタヒヤ条約」を結ばせました。

 

ムハンマド=アリーがエジプト・シリアを「終身領」とすることは認められましたが、オスマン帝国の領土であることに納得いかず、彼は「世襲権」を争ってオスマン帝国と戦争をします(第二次エジプト・トルコ戦争)。納得のいかないオスマン帝国は、ロシア帝国プロイセンの支援を受けて軍事力を強化。近代化されたエジプト軍も、快進撃を続行。そこに、イギリスが再度、調停に乗り出してオスマン帝国側につきました。結果、逆転されたエジプト軍は降伏。結果、シリアをオスマン帝国に返すことになりますが、エジプトの「世襲権」は認められ、ムハンマド=アリー朝エジプトができました。

 

それでも、諦めなかったムハンマド=アリーはアラブ統一の夢を抱き、戦い続けましたが、幾度も最後にはイギリスに阻まれます。後継者のイブラヒムを先に喪った彼は、80歳でこの世を去ります。アラブ統一の夢を阻んだ英は、オスマン帝国とエジプトの両国が戦い続け弱体化させることに成功し、ムハンマド=アリーの死後、エジプトを英領にすることに成功しました。最後は、得をしたのはイギリスだけでした。

 

  第2章「アラブ大反乱の父 フサイン=イブン=アリー」 

 時は更に下って、1914年。第一次世界大戦の勃発です。中東では、英とオスマン帝国が戦っていました。英はオスマン帝国内の内部崩壊を狙い、メッカ太守のフサイン=イブン=アリーに接近。英の外交官マクマホンとこのフサインと5回の文章やり取りで「アラブ人が大反乱を起こし、オスマン帝国が敗北すれば、アラブ人居住人区域を「アラブ人国家」として認めましょう」というフサイン=マクマホン協定を交わしました。

なお、軍事顧問として英からやって来たのが、トーマス・E・ロレンス、後の「アラビアのロレンス」でした。

 

高校世界史では重要事項になりますが、この時のイギリス、多重外交をやってました。フサイン=マクマホン協定も含めると、俗にいう三枚舌外交は、こんな感じ。

 

 ・1915年フサイン-マクマホン協定:アラブのメッカ太守のフサインと英との協定

  …パレスチナを含むアラブ人居住地の独立を支持

 ・1916年サイクス-ピコ協定:仏代表のピコと英代表のサイクスによる作成

  …パレスチナは英の、イェルサレムは英・仏・露の国際管理下に置かれる秘密条約

 ・1917年にバルフォア宣言:英シオニスト協会長ロスチャイルドと英外相バルフォア

  …パレスチナをユダヤ人の民族的郷土にすると約束(第二次大戦後のイスラエル)

 

これを知ったフサインは、息子2人がイラク、シリアを納める予定だった土地まで、欧州列強に統治されると感じ、同土地でアラブ人たちの大暴動を起こしますが、シリアは仏軍に鎮圧され、下の息子のファイサルは追い出されました。怒り心頭の上の息子で兄のアブドゥラーは、シリア会報のため進軍を計画しますが、そこにイギリスが説得にかかかり、

 ・兄のアブドゥラーがヨルダン国王、

 ・弟のファイサルにはイラク国王、

にそれぞれなるように認め、父親フサインヒジャーズ王国(メッカとメディナを含むアラビア半島西岸地域)を含めて、彼らは一定の勢力を保ちました。

 

さらに1924年トルコ革命オスマン帝国が滅亡し、スルタン(皇帝)の廃位と同時に、スルタンが兼ねていたカリフ(預言者ムハンマドの代理人で、イスラーム世界最大の権威者)が廃位されると、次代カリフとして、何とフサインが自称を開始。一応、預言者ムハンマドの一族ハーシム家の出身だったフサインですが、イスラーム世界の人々はあきれました。そこに、アラビア半島中央部のリヤドを拠点とし、イスラームワッハーブ派(特に厳格な宗派)の指導者であったイブン=サウードに「メッカ解放」の大義名分を与えてしまい、半年でㇶジャーズ王国は滅亡。英は英で、サウードとの対立を嫌い、フサインの援軍要請に応じませんでした。

 

サウードによってㇶジャーズ王国は併合され、後の「サウジアラビア王国」の基盤となりました。そこへ英が近づき、イラクとヨルダンの両王国のハーシム家兄弟による統治を認めたら、サウード一族によるアラビア半島の王国建国を認めますよ、と耳打ち。英と戦争をするのは得策ではないと判断したサウードは、イラクとヨルダンの王国をそれぞれ認めました。

 

結果、英は自信の委任統治領であったイラクとヨルダンの勢力維持に成功した上、サウード家の勢力抑制にも成功したのでした。そして、ここからサウジアラビアと英、それを引き継いだ米国とサウジアラビアの関係が始まったのです。

 

 

  第3章「全世界を味方にした男 ナセル」

20世紀のエジプトに話は飛びます。第一次大戦後、エジプトは王国として独立。その実態は、ムハンマド=アリーの子孫である王や地主が、英とともにアラブ人を搾取する政治構造になっておりました。軍人ナセルは部下を率いて立ち上がり、エジプト革命ムハンマド=アリー朝を倒し、エジプト共和国を建国します。

 

ナセルは、社会主義的な農地改革で、地主の土地を貧農に分け与える政策を実施(日本でも戦後に行われたような…)。列強と手を結んでいた王権を倒したリーダーのナセル大統領は、1955年のアジア=アフリカ会議で一目置かれます。このバンドン会議で、彼はアジア・アフリカの新興国家に、「我々は(東西冷戦の陣営に対して)”第三勢力”として、列強の植民地主義に対抗していこう」と約束します。

 

 翌年、ナセルは英・仏の管理下にあったスエズ運河の国有化を宣言します。英仏はスエズ運河の通行料を収入としていたが、ナセルはそれをエジプトの人民の手に戻そうとしたのです。激怒した英仏は軍隊をエジプトに派遣し、対するナセルは反帝国主義を掲げて第二次中東戦争が始まりました。そこには、1917年に英外相とのバルフォア宣言によって、第二次大戦後にユダヤ人たちが建国したイスラエルが英仏側として参戦。ナセルの抵抗むなしく、スエズ運河は英仏イスラエル連合軍に占領され、彼は自殺まで考えました。

そこに、世界中からナセルに対する支援が上がり、英仏イスラエルに対する抗議声明が各国により、出されていきます。更に、社会主義諸国の東側陣営のリーダー・ソ連がエジプトに味方。この世界的な流れに、米国もナセルに味方せざるを得ませんでした。国際連合で即時停戦が決議され、英仏イスラエルは優勢でしたが、撤退せざるを得ませんでした。世界を味方につけた外交的勝利で、ナセル大統領はスエズ運河を国有化したのです。

 

勢いのついたナセル、イケメン総督ことムハンマド=アリーと同じことを考え出します。次に彼がしたことは、アラブ民族国家の樹立であり、手始めにシリアとエジプトを合体して、「アラブ連合共和国」を成立させます。問題は、シリアとエジプトの間にあったユダヤ人国家・イスラエルでした。ナセルの夢は、将来的にイスラエルのユダヤ人からパレスチナを取り返し、アラブ人の土地に戻すことを描いていたのです。

ナセルの野望に、ソ連社会主義路線を同じくするエジプトに、アスワン=ハイダムの建設援助を行うなど、接近して、エジプトは強大になっていく。当時の国際情勢上、国際的な世論もあって、英と米国はイスラエルへの援助にとどまっていました。

 

追い詰められたイスラエルは、1967年奇襲をかけて「第三次中東戦争」を開始。超高速で戦闘展開し、わずか6日間でエジプトに勝利し、スエズ運河東海岸まで占領しました。この敗北で求心力を失ったナセルは、失脚。アラブ統一国家の夢を果たせないまま、1970年、彼は病気でこの世を去りました。

 

  第4章「アメリカに噛みついたアメリカの犬 サダム=フセイン

最後は、長引いたイラク戦争で、逃げ続け、潜伏先にいたところを米軍に確保。処刑されたサダム=フセインのお話です。その前に、イラクの東・ペルシャ系の人々が暮らすイランについて、本書は語りだします。

 

近代化を目指したイランには、パフレヴィ―朝による国家がありました。1941年、国王となったパフレヴィ―2世は、英米寄りの政策を採る君主でした。世界ランキング5位までに入る石油埋蔵量の自国に英米資本を進出させ、王族とともに石油利権を独占。イランでは経済格差が広がっていたところ、イスラーム教のホメイニ師による「イラン=イスラーム革命」が起こり、イラン王政は妥当されました。イラン=イスラーム共和国という、イスラーム教復興による強烈な宗教国家が誕生し、イランは極端な反英米になりました。

 

ホメイニ師のイラン=イスラーム共和国の打倒を考えた米国は、イランの隣国・イラクに接近します(このころ、イラクは大統領のいる国になっていました)。そこの大統領・サダム=フセインに米国はラムズフェルド氏を派遣して武器を納入させ、1980年、イラン=イラク戦争が勃発。8年続いたこの戦争は、両国の疲弊で停戦。当時、イラクは米国の支援で軍事大国化しており、きっちりその代金を米国はイラクから請求しようと近づきます。イラクは、石油の価格を上げて武器の代金を返していこうと、石油輸出機構(OPEC)の総会で、石油の減産による値上げを提案。しかし、米国を取引先に持つサウジアラビアクウェートが反対。

本書では、イラクVSサウジアラビアクウェートの組み合わせで、お互いと「アメリカの犬!」と罵り合っています。この犬は麿眉のない柴犬のようで可愛らしいのですが、実際は新米国であり、サダム=フセインにはアラブの連帯をかき乱していると考えます。

 

本書の描写では、今度はサダム=フセインがアラブの盟主になろうと野望を持ち、英米に毒されたクウェート王族からアラブ人を解放しようと、軍事大国の自信でもって、イランの南西角、イラクの南東にくっ付いているクウェートに侵攻します。一日も経たないうちに、クウェートは占領され、そこに米国が現れて劣化ウラン弾を発射。原発の使用済み燃料を使用したこの兵器は、高い貫通力をほこる上、放射能汚染を起こし、この影響で多数の奇形児が生まれていると言われるようになりました。これが湾岸戦争です。イラク軍は100時間の戦闘でクウェートから撤退を決めますが、その撤退するイラク軍に空からナパーム弾などで猛攻撃を展開。徹底的にイラクの戦力を削ぎにかかりました。これが真実なら、怖いぞ、アメリカ。

 

更に時は経ち、2003年にイラク戦争が勃発。イラク大量破壊兵器があるとにらんだことで、攻撃が始まり、2011年まで続きました。本書では、それが米国によるイチャモンであり、詰め寄る米国にサダム=フセインが「全部捨てたし、もとの持ち主はあんたじゃないか」と返答し続け、最後には彼が処刑されたことを暗示する描写で終わっています。ここまで、英米が中東に介入するのは、バラバラにすることで、大きな力を持たせないためであり、それ故、現在もアラブ統一国家は実現していない。

 

ここで、第4章は終わっています。

 

ちなみに、米軍の調査の結果、イラク大量破壊兵器はなかったというニュースを、私は聞いたことがあります。

 

6.アラブ編のまとめ

中国編の2倍以上の長さになりました。つまり、それほどまでに中東のアラブ、そしてイスラーム世界の歴史は民族や勢力が入り乱れ、展開してきたといってもよいでしょう。

 

本書を読了なさった方は、お気づきかと思いますが、このアラブ編に出てくるイラクとシリアは、近現代の中東において、周辺諸国に侵攻を受け、支配者が変わり続けた地域です。アラブ編の中盤で、ハーシム家のアブドゥラーが国王となっていたイラクは、イラン=イスラーム革命のころには、大統領のいる国に変わっていました。一方のシリアも、読者が気がついたら、アサドという大統領のいる国になっていました。

 

この二か国、今も混乱が続いています。イラク戦争から続く混乱、政府軍と反政府軍の戦闘および各軍のバックにつく他国の軍隊によって続くシリアの戦争。そこに、イラク戦争までの武装勢力の活動で成長したと言われるISISが登場し、イギリスの三枚舌外交時に結ばれた諸協定を否定し、イスラーム教に基づく国家を樹立すると宣言。シリアからの難民は、様々なルートを使って主に欧州に避難をしています。これは私の邪推ですが、シリア難民が西のヨーロッパを目指す理由には、中東に留まると、近現代のようにまた戦争に巻き込まれる危険をほとほと、シリア難民が悟ったからではないでしょうか。

 

本書を読んでいて皮肉ながら、近代に列強が中東分割に介入した結果、現在の戦争で出た難民が、かつての欧州列強の土地にも逃れてきて、欧州に様々な社会問題として認識され、EU諸国が対応を迫られているというのも、必然ではありませんでしょうか。

 

下の記事は、実際にドイツに留学されている日本人の音大生の方が、ヨーロッパで起こるテロについて、実体験をもって、お書きになっている記事です。この記事を拝読して、私は本書を踏まえて、改めて欧州で起こっている事件について、認識を新たにする必要があるのではと思いました。

www.tomotrp.com

 

 

 

長くなりましたが、ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました。この記事が少しでも、読者の方の理解のお役に立てれば、幸いです。 

 

(現代史を知るための「擬人化」世界史漫画~ゆげ塾『ゆげ塾の中国とアラブがわかる世界史』:アラブ編~終わり)

 

<補足記事>

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