<目次>
1、はじめに
お久しぶりです。3年前、うつ状態に陥り、腹部の良性腫瘍( 健康を害するほど成長)で2022年の1月、入院中、 手術の朝、1/7スケールフィギュアに近い、 アゾンインターナショナルから発売のピュアニーモ( リカちゃんサイズ)の志摩リンを発見&購入↓
帰宅後、 ドール趣味の世界へ入り、沼って4年目の仲見です。
沼ってから、ドール関係のYouTube動画を見て、メイクを10体と少しやってみたり。簡単な図柄を刺繍する仕事で手芸に触れ、40センチ級のドール服を作って図柄の縫い入れが出来ないかと考えたり。主に、クラフト分野で人形に関わってきました。
ところで、YouTuberの好事家ジェネ(旧名ジュネ)氏によれば、1990年代に自分でフィギュアをカスタマイズする要素を、日本のフィギュア企業が人形にドッキングさせ、ホビーとしてのドールを誕生させたそうです↓
"球体関節人形を語る!ドール座談会で大盛り上がり♪【好事家ジュネ】"
https://youtu.be/FyI8yPIqPNg?si=s6pRQ_9hfi3MESh7
その企業とは、フィギュアのガレージキット販売で有名なボークスであり、手足のパーツを交換したり、ヘッドをメイクしたりと、カスタム要素を入れた人形シリーズとはSDこと、キャストドールのスーパードルフィーのことと思われます。今年の2025年は、SDが誕生してから、そろそろ25年になります↓
○『スーパードルフィーのせかい Super Dollfie®️ 20th Anniversary』扶桑社、2019年
ジェネ氏曰く、大人のホビーとしての今のドールの楽しみ方は、日本発の文化であるとのこと。SD誕生から25年のこの頃、私は学術的にアプローチしたいと感じ、最近100号を迎えた、サブカルチャー情報誌のTH叢書のバックナンバーの該当特集号を探しては、批評や論考などを読み漁り始めました。
そこで発見したことは、理想や夢を具現化する行為としてのドール遊びの行為的な意味でした。
2、理想や夢を具現化するドール趣味の行為的な意味
『TH叢書』No.79の特集【人形たちの哀歌】:
に収録:
○浦野玲子「でくのぼうの悲劇ーー映画『オテサーネク』と『マジック』を中心にヒトガタの呪力について考えてみたーー」。
引用の、
ヤン・シュヴァンクマイエルのいう「実生活ではどうすればわからない問題をそこ(仲見注:人形劇)に持ち込み、解決することができる。しかも、それは自分が支配する世界であり、したがって、想像力がもたらす夢を実現するためにつくられたような世界となる」という感覚は、子どもだけではなく、人形を愛する大人にも通じる。ピグマリオン的人形愛の世界も、実生活では実現不可能な理想の愛(人)を妄想のなかで実現しているのではないだろうか。
の箇所。
ここは、2つの重要な指摘があります。
1つは、人形劇と共通する人形遊びの要素には、周囲の人間のお世話の仕方を学ぶと同時に、実生活では不可能な問題を人形遊びの中で支配者となって解決するということ。
もう1つは、ホビーのドール趣味のカルチャーにもこうした、実生活では実現不可能な理想や欲望を、ドール相手にお着替えやミニチュア小物での食事のセット等により遊ぶことで再現する遊びの背景にも、根差していることではないでしょうか?特に、自分の着たいけど着れないテイストの服を人形に着せるといった行動は、理想実現の代替行為と言えるかと。
そういうことです。ああいった分析は、学術的な分野でいうと、心理学になるのでしょうか?それとも、芸術学になるのでしょうか?うーん、分からない。
更に追加で考察すると、人形を持ち込める(連れて行ける)飲食店や撮影スタジオ等は、ドールオーナーが日常生活では実現の困難な理想(や希望)を、ドールを通じて具現化できる非日常的空間になっていると言えないだろうか?そんな夢の実現をさせることで成り立つビジネスが、ドール関連の業界でしょうね。
まあ、そんなことを浦野玲子氏の文章を途中まで読み、考えました。
3、終わりに
以上、浦野玲子氏の文章のヤン・シュヴァンクマイエルのインタビューの引用箇所を主にして、日本発のホビーとしてのドール文化の一面を考察してみました。
実は別の側面として、ドールのファッション文化のあり方は、人間の仕立て服→既製服への歴史的な変遷史と一部が重なるところがあり、面白そうです。機会があれば、こちらの↓
○平芳裕子『東大ファッション論集中講義』(ちくまプリマー新書)、2024年
を読みながら、また、ドール趣味のファッション文化面でのあり方など、考えてみたいと思います。
ここまで、お付き合いくださり、ありがとうございました。