仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

【レビュー】大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史』

昨日、読了したばかり、ホヤホヤの本です。レビュー致します(常体で)↓

 

 

全体の概要

著者は、山田美妙の博士論文で学位を取得し、近代日本文学者として大学講師であり、また2012年からライトノベル作家としても活動している大橋崇行氏。本書は、研究者視点を持ちつつ、クリエイターとして仕事をしている大橋氏でないと、おそらく書けなかったであろう、「研究書」に近い位置にある「文芸批判」の書であろう。

 

大まかな内容を書けば、江戸期からの系譜を引く近代日本文学を少女/少年小説の「歴史」に接続させ、そこから2000年代までの文芸を一続きで見渡すことで、ライトノベルがいかに生成されてきたのか。を眺めることで、サブタイトルにあるように「現代日本の物語文化」を見直している、という作業がなされている「文芸批評」の本である。

 

著者は、あとがきで書いているように、「創作に手を染めているという理由で、研究者としては扱ってもらえないことのほうがい多い」というアカデミックな世界に身を置く、「非常に珍しい存在」なのだそう。さらに、文学研究が

 

現代ではひとつひとつの研究が詳細になった分だけ、長いスパンの文学や文化の全体像を捉え直すということが非常に難しくなっている。(中略)どうしても短い時代を集中的に扱わなくては、資料を追いかけることさえままならない。(中略) 

 

以上のような状況であるため、今回のような企画を「研究書」として書くことは難しい。だから「文芸批評」として、「自分自身のスタイルがどのような問題意識に基づいているのか、その問題について考えることを通してどのように日本文化を捉え直していくための枠組みを提示できるのかを書くことならできるかもしれない。」著者はそのように考え、「明治初期という古い時代と、現代の最先端の小説とを「両方やる」という選択をし」て、本書を上梓したのである。

 

これから、ブログ執筆者である仲見こと私の視点から、本書で特に気になったところをピックアップしてゆき、感想を述べていきたい。

 

1.「第2章 「少女小説」「少年小説」「ジュブナイル

 Ⅱ.少年小説

この節は、少年小説の歴史を扱ったセクションで、幕末から明治に日本へ入ってきた外国の小説が(エンターテインメント性のある)少年小説に影響を与えたということが、最初に書かれている。次に、一方で江戸期の文学作品の系譜を少年小説が引いているという観点からも考察が開始されている。以下、私の独断と偏見で、興味を持った箇所を取り上げていく。

 

 p.123:明治初期の西洋小説はSVOの文法で、漢文風に単語下に番号をふって読んだそう。東洋学やっていた身としては、漢文の万能さに感心する限り。

 p.127:小学館が小学生向けの教育図書や学習雑誌に社名が由来しているのに対し、全く別の会社の大学館は東京帝国大学の入学試験関連書籍を出していたところだそうです。まず、大学館という社名に驚き!

 p.129:著者は、自分がライトノベル本を出したPHP研究所スマッシュ文庫を挙げて、企画一発勝負の小説を次々に出版していることを「出オチのスマッシュ」などとネット上などで揶揄されることもある、と書く。大学館が企画で遊ぶことのおもしろさを知っていた出版社として、本格的に小説に手を染めることの例えとして、スマッシュ文庫を引き合いに出しているが、お世話になっているはずの作品レーベルについて、言うことに遠慮がない。

  

 p.132 講談と「実録物」:中国の四大奇書が耳で聞く講釈ものから、読者が読む小説へと変化してゆく過程と重なるようで、同じようで非常に面白いと思った。中国では明初に起こっていたこの流れが、日本では文明開化してゆく近代の中にあったという点においても、興味深い。

 p.160-166「まんが」と「絵物語」:後者は、文章が絵よりも主導している、少年小説に対してイラストを補助的に書き加えるという、現代のライトノベルと同じ作り方を持っていたのが、「絵物語」だった。 大橋氏がライトノベル作家だからこそ、指摘できる点である。

さらに、著者が第3章の最後にで指摘しているように「特に絵本の系譜においては」中国で書かれた小説の輸入という問題を無視して考えることはできない」のである。

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(上の「冒険ダン吉」が絵物語、下の「のらくろ」がまんが/本文p.162より)

 

2.「第3章 <キャラクター>論」

「古典文学はキャラクター小説家」

 p.208:江戸時代における絵本・小説類の出版状況を説明して、「江戸時代の絵本や小説は、江戸の街全体を使った巨大なコミケをおよそ百五十年以上にわたって続けていたと考えると、ほとんどそのまま当てはまってしまう。」というのは、納得してしまった。あと、それは学術図書における博士論文の出版物にも部数と流通において、当てはまると思う。

 

おおかみこどもの雨と雪』が示すもの~「ライトノベルの英訳におけるキャラクター性 の消失」:

 映画「おおかみこどもの雨と雪」をとっかかりに、日本のキャラクター文化を語り始める。日本のフィクション作品の登場人物がキャラクターとして受け入れられるのは、①内面を言葉として吐露する登場人物が際だって登場すること、②ライトノベルや漫画などのキャラクター性とは、「役割語」という日本語の表現特性によるものとのことで、これによって「~ではなくて?」という口調は「お嬢様」、「~じゃないかの?」という口調は「老人」等というように人物の特徴が様式化されているということ。大まかにいうと、以上2点を軸に、日本における「キャラクター」とは何か?という議論を行っていた。

 

3.まとめ

東洋学、特に、明末清初の文学作品を研究で使っていた身としては、第2章の「Ⅱ.少年小説」の部分は、後半を魅力的に感じた。なぜなら、中国明代の講釈をもとに『三国志演義』や『西遊記』、『水滸伝』が文字を通して書き留められ、絵の入った本となり、その段階を経て、目を通して読む物語として『金瓶梅』が個人によって書かれていく。その過程が、「p.132 講談と「実録物」」に書かれた明治期日本の小説成立事情と重なったからである。

このあたり、下の井波律子氏の本を再読すると、理解が深まりそうである。

 

naka3-3dsuki.hatenablog.com

 

また、現代中国の漫画には、絵入り物語の一種と言え、絵の登場人物がふきだしでセリフをしゃべっている表現のある”連環(漫)画”から発展したと言えるものもある。そういった観点から、「p.160-166「まんが」と「絵物語」」の日本の漫画成立事情と、中国の漫画成立事情をライトノベルを介して、議論しても面白そうだと考えた。

 

第3章については、聞きかじっていた日本語の「役割語」という特性を介して、外国語に翻訳された日本のライトノベルが、同じく日本の漫画やアニメに比較して海外で商業的に苦戦しているのか、ということをライトノベルの英訳におけるキャラクター性 の消失」のところで詳しく解説されていた。そういったところから、日本語の「役割語」という特性が生かされたライトノベルを読むには、日本語の原書でなければその醍醐味は伝わらないのかとも思う。

 

本書を全体として見ると、分析手法は学術的に近いものの、突き詰め方や使う文献が学術論文に比べて「緩い」ため、やはり「文芸批評」であるし、そうでないと本書は成立しなかったと思った。

 ちなみに、Amazonで本書のカスタマーレビューに目をとおすと、「誤字が全体的に多い」という指摘がちらほら。公開出版される本であるし、失礼ながら一般向けにしては高い値段に入る上、分野的には重版がかって修訂する機会が少なそうな本と思われるので、誤字脱字には気をつけて頂きたかったのが、読者としての本音である。

 

そうは言っても、本書の魅力は損なわれたわけではない。今回、主に、私は中国古典小説の成立や出版の過程という観点から楽しんで読んだ。皆さまも、どうか本書を手に取られたら、個々人の興味のある分野に引きつけて楽しまれたら、新しい発見があるだろう。

 

ここまで、私のダラダラとした読書感想文にお付き合い下さり、ありがとうございました。

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