仲見満月の研究室

元人文学系、現・文理総合学系の「真っ白」博士が大学院とその周辺問題を考える

【追記】人文学の「価値」を「正面から問うこと」の一連の議論について

<今回の記事内容>

1.はじめに~一連の議論の簡単な経緯~

 1-1.「人文学は何の役に立つのか?」(道徳的動物日記)からの出発

3月31日に投稿された、次のはてなダイアリーの記事(以下、はてな記事)を中心に、この週末、「人文学は役に立つの?」という議論が沸き立っておりました↓ 

davitrice.hatenadiary.jp

 

上記の はてな記事では、その前日、3月30日に投稿された次の内田樹氏がご自身のブログに投稿した「役に立つ学問」という記事を冒頭に取り上げ、はてな記事のテーマに沿う形で、議論が展開されています。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

はてな記事では、冒頭に取り上げた内田樹氏の投稿記事で、内田氏が

「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。

そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。

正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

(役に立つ学問 (内田樹の研究室))

と述べた部分を引用し、

「学問は役に立つのか?」という問うている人たちに対して正面から向き合っている文章であるとはとても思えない。

(人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記)この

という点を指摘しています。内田樹氏に対する、はてな記事の筆者による批判はしばらく続きますが、そこは割愛させて頂き、次の「人を道徳的にする」というところに人文学の価値があるという議論に移らせて頂きます。はてな記事の中盤では、アメリカの例を挙げ、「読書(文学)が人々を道徳的にさせるということ」を説明しています。このことを指摘したのは、心理学者のスティーブン・ピンカーとされていました。はてな記事の筆者は、このピンカーが「「なぜ、文学者たちは"文学が役に立つ理由"を尋ねられても文学が人々を道徳的にするということを示さないのか」という点について」、

多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

(人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記より孫引き)

と引用して、文学者が「文学が何の役に立つのか?」という問いかけから逃げる理由の根拠としてているようです。次に、哲学が社会的に役に立つ事例として、哲学の進捗が社会全体の道徳を進ませたと、はてな記事で筆者は説明。以上のような流れから、文学や哲学は多くの人々を苦痛から解放させることになった、と捉え、人文学は役に立っていないわけではないことを、主張しています。

 

締めとして、はてな記事では、

自分が学問をするならそれが何らかの形で人々や社会の役に立つことを望みたいものだし、「あなたのやっている学問は何の役に立つのか?」と問われた時には(問いの前提についてどうこう言うばかりでなく)正面からはっきり答えられるようになりたいし、(中略)また、例えば大学教授とか研究員の研究に対しては何らかの税金が投入される訳で、そこで自分の研究の社会的意義を問われた時に煙に巻いてごまかそうとしたり役に立つかどうかなんて考えたことないと開き直ったり心外だとばかりに憤慨するとすれば、社会の成員としても道義的にダメだと思うし、大人としても格好悪いだろう。

(人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記)

と、冒頭に挙げた内田氏の「役に立つ学問」への批判を述べています。

 

以上が、この週末の一連の議論のスタート地点だと、私は考えました。

 

f:id:nakami_midsuki:20170402165934j:plain

 

 1-2.そもそも、この議論での人文学とは?

はてな記事に対する私の考えは後述するとして、少なくとも、はてな界隈では、このはてな記事による問題提起が、この週末の議論を盛り上げる契機となったのではないでしょうか。ここで疑問になるのが、そもそも、この議論での人文学とは、細かく言えばどの分野を指して言うのか?ということです。上記の内田氏の投稿記事を中心にしたTwitter上の反応について、まとめた次のtogetterにおいても、様々な方が指摘されています。「役に立つ」以前に、人によって人文学の定義が違うのでは?という反応も、ありました。

togetter.com

 

さて、本ブログでは、よく「人文科学」という呼称を使いますが、ぶっちゃけると「人文科学」≒人文学という大雑把という認識で、私は諸々の記事を書いています。人文学は役に立つのか?という問いに「正面から」答えることはそもそも可能か - Togetterまとめのコメントの中に、

別に文学が混ざっててもいいんじゃないの?→「人文学分野の研究動向」 https://www.jsps.go.jp/j-center/data/08_seika/gep_200709.pdf 「人文学は哲学,文学,言語学,史学,人文地理学,文化人類学の6分科から成り~」

人文学は役に立つのか?という問いに「正面から」答えることはそもそも可能か - Togetterまとめ

 という、有り難い情報がありました。私もおおむね、上記の6分科とその下位分野を「人文学」として扱っています。更に、人文学≒「人文科学」としているには理由があります。その理由は、私の学部時代の史学科の先生が

「史学とは、様々な史料(文献史料)を比較・分析して検討した結果、新たな成果を得るのです。この手法は科学な手順を踏んでいると言え、一応、史学も科学に入るので、史学を含む学問を人文科学と呼ぶこともあるのです」

と説明されたことにあります。先にことわっておきますと、私が名乗っている生活文化史は史学の端っこ、歴史人類学は史学と文化人類学の境界上に各々、位置していると認識しており、そういうわけで、一応、私も人文科学をやっている人間だと主張しております。(まぁ、このあたりは深く、探らないで下さい)

 

そういうわけで、本記事では「人文学」≒人文科学として扱うことにしました。議論している方々の認識は違うかもしれませんが、人文学の大枠という認識として、このような定義で行くことに致します。

 

 

2.人文学の「価値」に対する仲見満月の私見

さて、はてな記事、および内田氏の議論について、私は思うところがあり、3月31日から本日4月2日の日、Twitter上で連続ツイートを行いました。それぞれ、次のtogetterにまとめましたので、詳細は以下をご参照ください。

 

 2-1.「人文学は何の役に立つのか?」(道徳的動物日記)に対する私見

結論は、タイトルの「人文学の社会的価値は「生きやすさの実践法」の探究にある」ということです。生活文化史の研究をしていた立場から、考えを述べさせて頂きました。

togetter.com

ところで、このtogetterの最初のツイートに書いていますが、内田氏以外にもこの問いに対し、「真正面から議論しても反駁されるから、文学者には諦めている人」は他にもいると思われます。その理由の一つとして、それに向き合ったら、少なくとも職業研究者はやってられません!という人もいます。私自身、ずいぶん自分の研究に対する社会的価値について、悩みました。大学院を出た後、togetterにまとめたようなことを理屈として、整理しました。

 

 

 2-1.内田樹「役に立つ学問」に対する私見

togetter.com

改めて内田氏の投稿記事を読み、考えたことをツイートしました。内田氏の言い分については、学習・勉強と「実学」を一部、学校や大学の教育現場で混同されている点の指摘には同意致します。それから、内田氏は「人文学は何の役に立つのか?」という問いに、真正面から答えたくないようなので、私は答えを求めません。ただし、現役の専業非常勤、ポスドクの人たちがいる現状、彼らの研究費やアカポスを確保するため、職業研究者を育てる意味では、きちんと社会や文科省に人文学の意義は説明する必要があると、私は考えています。このtogetterより、詳しく次の3の項目で説明します。 

 

 

3.真正面から人文学が役に立つことを説明する必要性について

 2-1の「人文学の社会的価値は「生きやすさの実践法」の探究にあるのではないか~「人文学は何の役に立つのか?」(道徳的動物日記より)の議論に関する私見~ - Togetterまとめ」の最後のツイートに対し、Twitter上で、津軽の現象術者(見習い さんとリプを頂き、そこから、今度はこの方と議論をさせて頂き、非常に興味深く、私が気が付かなかった視点を下さいました。ぜひ、共有したいと思って打診したところ、ご許可を頂きました。連続リプライによる模様を本記事に転載致します。

 

なお、転載にあたりまして、ツイートされた日時や時間、それから一部の誤字・脱字、リプライ先について、読みづらさを解消し、記録することを念頭に置いて、省略および訂正、改行等の手を入れさせて頂きました。あらかじめ、ご了承ください。

 

 3-1.津軽の現象術者 (見習い さん と仲見満月の議論

 仲見満月@経歴「真っ白」博士‏
@naka3_3dsuki
私も歴史学かじった後に、色んな細目分野のボーダーをゴリゴリやってきた認識はあり、自分の学問分野の位置はよく分からんのですよ。だから、そのあたりの細かいことは、追求しないで頂きたいのです。それだけは、おことわりさせて下さい。連続ツイート、おしまいです。

 

津軽の現象術者(見習い さん

@naka3_3dsukiさん

ほぼ全面的に同意します。その上で「あえて」考えたいのですが、人文学が生きやすさの探究や、道徳的(寛容さ?)に役に立つことを、一般解として提示することは可能ですが、それでもなお「生きやすさや道徳、を、そこまでして問い返すのはなぜか?」と問う人と、私はしばしば出会います。

 

 仲見満月@経歴「真っ白」博士‏

それは永遠の問いである。と、私は考えています。語弊を承知で申し上げるなら、地球上に人間が70億人に達しようとしている現在、様々な人間集団がこの星におります。それだけ、道徳・倫理観、規範等は、異なるでしょう。多様な集団や社会の「ぶつかり合い」があれば、既存の集団や社会の道徳や倫理観、規範等は、変化していくでしょう。その結果、時代や集団・社会によって、無意識・自覚的に拘わらず、生きづらさを抱える人は出てくるでしょう。そうした人間のため、更に生きづらさや問題を抱えた集団・社会に、人文学は私見のような意味で価値があると思います。

 

津軽の現象術者(見習い さん

@naka3_3dsuki 全くその通りだと思います。私も、その一人ですし、その自分の営みと、他者の営みにより、かろうじて「生」の足場を確保していることを自覚しています。しかし自分にとっての「かけがえのなさ」を、一般解として提示することの困難と無意味さ、諦めと、どう向き合えばいいか掴めません。試行錯誤ですね

津軽の現象術者(見習い さん 

続き2→やはり、引用の内田樹氏が言うところに、究極的には収めざるを得ないと思います。その意味で、私は日頃から生活正解では「黙している」のですが、それでも無理やりに、黙さずに話せ!と詰め寄られると、本気で、その場から逃走することにしています。(親との関係でも然りです

 続き→そのときに言えるのは、私には「そこまでして問い返す動機がある」と、個別にしか言えないのであり、一般解として「問い返す」ことを提示するのは困難、無意味だと、私は強く感じています。なので、何の役に立つのか?と言われれば、一般解を提示することは不可能ではないと思いますが

 続き3→すみません、中途半端に途切れて、失礼しました。以上です笑

 

 仲見満月@経歴「真っ白」博士‏
ここまでのツイート、拝読しました。内田樹氏への問い返しについて、それでも、真正面から答えないと、社会システム上、この分野の職業研究者の予算が大幅に減らされていき、研究が大学で続けられない!それで飯が食えなくて、失業してしまう人がいるから、です。今の日本の話です。

失業すると、実際に私の学部時代の先輩方の専業非常勤講師、それから内的取り消しに遭ったけど、めげずに非常勤講師とアカポスでの就活を続けている先輩、それから後輩たちの就職先がなくなるんです。お世話になり、人文学と真摯に向き合うことを職業としている彼らがの現状に、社会的な憤りを感じます。

 

 津軽の現象術者(見習い‏ 

…なるほど、この問題を、別個に取り出す必要はありますね。私の立場(いまは学生でも研究者でもない)から見える問題と、大学ー研究の結びつきから見える問題を、同じにしてはいけませんね。いったん、席を外させていただきますが、また、考えさせてください。ありがとうございました。

 

仲見満月@経歴「真っ白」博士‏ 
>大学ー研究の結びつきから見える問題を、同じにしてはいけませんね。:このあたりについては、私は津軽の現象術(見習い 様に同意です。そのあたりの問題や生き方としての「研究者」については、拙ブログで書いています。ご参考にして頂けたら、幸いです。

http://naka3-3dsuki.hatenablog.com/

議論に質問を頂きまして、ありがとうございました。

 

 

仲見満月@経歴「真っ白」博士

失業すると、実際に私の学部時代の先輩方の専業非常勤講師、それから内的取り消しに遭ったけど、めげずに非常勤講師とアカポスでの就活を続けている先輩、それから後輩たちの就職先がなくなるんです。お世話になり、人文学と真摯に向き合うことを職業としている彼らがの現状に、社会的な憤りを感じます。

 

津軽の現象術者(見習い‏ 
失礼すると言いながら、すみません。そもそも「人文学がこの国では可能なのか?」「人文学を職として可能にするには?」を考えるとき、首都大の西山雄二氏の研究、著作が気になっています(まだ読んでませんが)。私は大学に属していませんが、西山氏の問題意識を、少し参照したいと思っています。 

 

仲見満月@経歴「真っ白」博士‏ 
お教え頂き、ありがとうございます。西山氏の議論は、気になりますね。私の問題意識は、どちらかというと、現状で人文学の研究で食ってる人がいまして、はてなダイアリーのブクマのコメントを読むと、人文学の価値の議論と、その研究の職業は不要か、必要か?というのは、混同される点にあります。

人文学に価値があるのか?訳にたつのか?という問いに真正面から答えないと、現実的に「その価値が示せないなら、予算減らしても構わないよね?」と元締めの文科省に判断され、食えない人たちがいるんですね。そこを混同して考えていかないと、失業する人、学べなくなる学生がいるんです。

訂正:訳にたつ➡役に立つ。失礼しました。

 

日本で人文学の研究ができない、できるではなく、現状では、とりあえず、しばらくは携わる人たちが食えるようにしないと、最悪、無くなる分野が出てくる可能性もあるかと。はっきり言って、消えてなくなるのが危惧されている伝統工芸や芸能と同じなんだと思います、その点は。形を変えてでも、何がなんでも、担い手が減ったとしても、その研究で飯を食ってる人がいる現状では、システムや内容を多少、変えてでも、ある程度は研究織のポストを維持しないといけないんです。そのために、予算を出してる文科省には、人文学の価値をきちんと示さないといけません。文科省は世論を気にしますから、ある程度、社会にも人文学の価値は説かないといけないでしょう。私はそう考えています。

 

以上です。

 

津軽の現象術者(見習い‏ 
真摯にお答えいただき、ありがとうございます。単純に嬉しくなりました。個人的ですが、私は学部卒→就職→修士(人文系退学)→就職→再入院(修士)希望、です。ゆえに、ってほどではないですが、同期の院生や、自分の葛藤も含め、研究職ポスト問題には強い共感と、憤りを感じています。

 

津軽の現象術者(見習い‏ 

いま年齢的に30を越えてますが、青森県に転居し、修士課程に入り直すことを考えています。こう思えるまで、長い遠回りをしましたが、要は、ポストの問題は度外視し、それこそ(地域社会に)役に立つ人文学、自分の生を支えるための人文学を掲げ直し、どうにか生きていくことを考えるに至っています。

 

津軽の現象術者(見習い‏ 

研究「職」を頭から外し、それでもなお、アルバイトで生計を立て、研究室に籍を置きたい30代の発想は、大いに周囲を困惑させ、家族を怒らせるに充分でしたが、端的に私には「これしかない」のであり、それが金になる、ならない。役に立つ、立たないの仕訳には、内田樹氏の如く発想で対処してきました

 

たぶん私の状況は人文学研究をめぐる「捻れ」です。直線的にポストへ向かうことに失敗したからこそ、自分の営みを、急に意味づける必要に迫られた気もします。そういう隘路にハマらないために、どうしたらいいか。それを院生個々の能力や努力の問題に収斂させないためには、どうすればいいか。

 

そのために人文学を「役立つ」と説明することが、どの程度、有用か、日々考えてしまいます。拝読しているうちに、たぶん、この職業研究者の問題にある程度、解を出しておかないと、私のように隘路に入った者が、どのように人文学的な生を全うするか、についても光が見えない気がしました。

 

以上です。私語りの域を出ませんが、在野だろうが、何だろうが、職業研究者のことを無視して「分かる人さえ、分かっていればいい」では、済まないものがあると、再認識しました。また、記事にコメントさせていただく機会があると思いますが、よろしくお願します

 

 3-2.二人の議論を振り返る 

津軽の現象術者(見習い さんと自分の議論を再度、振り返り、自分のリプライについて、書いていきます。

 

まず、序盤に頂きました次のリプライについて:

津軽の現象術者(見習い

その自分の営みと、他者の営みにより、かろうじて「生」の足場を確保していることを自覚しています。しかし自分にとっての「かけがえのなさ」を、一般解として提示することの困難と無意味さ、諦めと、どう向き合えばいいか掴めません。

こうしたジレンマは、先述した通り、私も院生時代に抱えていた問題でもあります。自分にとっての研究の意義を、一般解として示すことは、非常に苦しみました。なぜかというと、困難であったとしても定期的にそこを説明しないと、いけない必要に迫られる環境に身を置いていたからです。自分自身が文理総合系大学院に所属していたこともあり、講座の中間報告会や博士論文の公聴会で、何度か、別分野の研究をしていらした副査の先生方に 、きちんと分かりやすいように研究の意義を含め、プレゼンをしないと、博士号を頂けない恐れがあったんですね。非常に個人的かつ特殊な大学院の研究科にいたからこそ、一般解、あるいはそれに近いものを求めらえていたんです。

 

博士号取得後に得た明確な一般解は在学中、見つけられていませんでした。どうしたかというと、幸い、副査の先生方の専門分野が同じところであったので、その専門分野と関連づけた説明をひねり出し、博士論文の公聴会はしのぎました。というか、情けないことですが、答えに詰まるところは、指導教員の先生に補っていただいたり、ボス先生に助け船を出して頂いたり、助けて頂いたのが事実です・・・。

 

そういうわけで、自分の研究を含めた人文学がどう役に立つか?ということに、真正面から答えなければならなかったのは、振り返ると、そもそも私自身が様々な分野の集まった文理総合系大学院に在学していたという事情に負うことが大きかったのです。定期的な説明をすることに迫られるというのは、おそらく、人文学という大枠で専攻が集まっている学部や研究科、例えば文学・人文学、社会学(の一部)といった分野の部局にいると、少ないんじゃないでしょうか?と邪推しております。

 

 

それから、人文学の研究で生計を立てようとしている周囲の人たちがいるから、彼らが現状としている限り、ある程度のアカポス確保や研究費をもらうため、外部の人にも人文学の意義を説明しないといけないと強く、意識しております。なぜ、ここを強く訴えるのかということについては、先述の説明他、こちらの別のtogetterまとめに書きましたので、ご覧ください↓

togetter.com

 

この研究職ことアカデミック・ポストと研究費確保の問題は、津軽の現象術者(見習いさんにも共感して頂け、そこは議論に付き合っていただいて助かりました。「人文学は滅んでもしようがない」という、非常にドライな意見を様々な場所で聞いたことがあり、正直なところ、それも仕方ない面はあります。究極のところ、伝統工芸・芸能と同じで、本ブログでも書いてきたように、別の職業を持ち、趣味で在野研究を続けてもいいでしょう。個人個人で続けるなら、それでもいいでしょう。実際、津軽の現象術者(見習い さんご自身の経歴を拝読すると、在野研究に近い形で、研究を続けらえていたようなことが窺えます。

 

話をもとに戻しましょう。少子化に加え、食えないのなら人文学で生計を立てようとし、研究機関に職を得ようとする若年世代はいなくなるでしょう。その前に、現状の厳しさが続けば、近い時期に日本の人文学の職業研究者は、例えば大学から消滅するでしょう。それも淘汰と言ってしまい、受けれいることも一つの道ではあります。

ですが、ある程度、職業研究者の人たちがいることにより、学校教育の国語科、英語科や社会科等の教育内容において、正確さやレベルの高さが保たれているのも、事実としてあると思います。ある程度の日本という国家の学校教育の教授内容の精度を保つなら、語弊を恐れずにいえば、やはり公的な大学や研究機関の職業研究者の存在が必要と私は考えております。

ナショナリズムや政治的立場等による教育内容のバランス等の問題については、今回は議論の本筋ではないので、取り上げません。ご了承下さい。)

 

短い期間ですが、私は教育現場で学校教育に携わっておりました。社会科の教材研究をしていると、各togetterまとめで取り上げたビジネス書や自己啓発本、小説や漫画、映画といったフィクション内容を授業の導入部に置き、生徒が学びやすいように授業を工夫するのは、アリだとは思います。ただし、実際に生徒に教科指導を行い、身につけてるべき内容は、やはり、きちんとした水準にあり、立証がされた研究に基づいたと国の検定教科書に沿って行うべきだと一応、考えて尾おります。そして、検定教科書を使用することは、ある程度、生徒の学力を担保するために必要ではないか、とも感じています。

 

 

やり取りのツイートに戻りましょう。いよいよ、終盤です。

津軽の現象術者(見習い

そのために人文学を「役立つ」と説明することが、どの程度、有用か、日々考えてしまいます。拝読しているうちに、たぶん、この職業研究者の問題にある程度、解を出しておかないと、私のように隘路に入った者が、どのように人文学的な生を全うするか、についても光が見えない気がしました。

 

以上です。私語りの域を出ませんが、在野だろうが、何だろうが、職業研究者のことを無視して「分かる人さえ、分かっていればいい」では、済まないものがあると、再認識しました。また、記事にコメントさせていただく機会があると思いますが、よろしくお願します

上記の引用部分にある「拝読しているうちに、たぶん、この職業研究者の問題にある程度、解を出しておかないと、私のように隘路に入った者が、どのように人文学的な生を全うするか、についても光が見えない気がしました。」のところは、私も議論を一緒にさせて頂いた時より、本記事を書いている時に強く頷いてしまったポイントです。職業研修者の問題を放置してしまうと、担い手の不足と学校教育における教育内容の質の低下に加え、在野で研究を続けようという若年世代のやる気さえ削ぐでしょう。そうなると、在野研究者さえいなくなり、最悪、人文学自体が日本から消滅するでしょう。

 

 

4.最後に

本記事では、この週末に起こった、 人文学の「価値」を「正面から問うこと」の一連の議論について、発端と議論の盛り上がりの経緯を書き、自分のツイートをまとめたページを入れ込み、最後に津軽の現象術者(見習い さんとの議論を振り返りました。人文学はどう役に立つのか?その「価値」を「正面から問うこと」について、津軽の現象術者(見習い さんとの議論のところまで来て、振り返ることで、一連の議論に自分なりの答えを一応は出すことが出来たと思っております。

 

特に、津軽の現象術者(見習い さんには、長い自分のツイートにお付き合い頂いたことで、自分のいた特殊な大学院の環境から人文学の価値を問う必要性、職業研究者の問題には日本の学校教育の内容水準や精度の担保という、今回の議論に対する新たな見解を得ることができ、大変感謝しております。ありがとうございました。引き続き、これらの問題を考えるため、ご紹介くださった首都大の西山雄二氏の研究や著作を探して、よんでみようと思いました。

 

今回、リンクを貼った各togetterまとめにつきまして、コメント頂きました皆さま、お返事が出来ていませんが、すべて読ませて頂いております。コメント投稿に制限がかかっており、なかなか、個別の返信が難しい状態です。時間を見つけて、Twitterのほうでお返事できたらと考えております。

 

ひとまず、人文学は何の役に立つのか?そして、この問いに正面から問うことに関する議論については、 ここで筆を置きます。本記事をお読み頂いた後、また新たなご意見・ご感想、お待ちしております。

 

長々と最期まで、お付き合い下さり、ありがとうございました。

 

 

5.追記:読者の方より

読者の方から、さっそく、文科省の人文学・社会科学分野の認識に関するサイトページの情報を頂きました。読ませて頂きます。

 

文科省が認識している人文系の意義

第三章 人文学及び社会科学の役割・機能:文部科学省

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