仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

古典は教養以上に「必須」なことも~「日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか」(はてな匿名ダイアリー)のこと~|

<今回の内容>

1.はじめに

新年が明けて、最初の週末。もう一週間ほど経てば、今年もセンター試験がやって来ます。ここで、少しセンター試験を含む大学入試に関する思い出をお話し致します。

 

高校時代の私は、壊滅的に理数科目がダメでした。おまけに、英語や国語の現代文の長文読解の得点率が、文章の内容によって差が激しいタイプなため、センター試験は早々に諦め、私立の文系三教科の一般入試で受験予定でした。

 

結局、秋ごろに小論文(志望専攻の分野レポート2000字)+自己推薦入試で受かったため、一般入試も受けず、センター試験は高校の模試を受験するだけでした。とはいえ、特殊な自己推薦入試では、志望専攻の分野レポート2000字を書かないといけず、東洋学が志望専攻だったため、高校国語の古典分野の漢文訓読知識について、「新釈漢文大系」等の図書室にある参考書で、レポートに使う参考文献中の漢文の意味を確認する程度には使いました。

 

なんで、高校国語の古典分野の話題を出したかというと、次のような「はてな匿名ダイアリー」を見つけたからです:

anond.hatelabo.jp

 

今回は、この匿名ダイアリー、および筆者の増田さん(仮名)の仰ることについて、思うことがあり、少し、書かせて頂きます。

f:id:nakami_midsuki:20180105184458j:plain

 

 

2.「日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか」(はてな匿名ダイアリー)に関して

まず、今回、取り上げるエントリ記事を通じて、増田さんの基本的な主張を確認しましょう。

  2-1.古典分野を解答するか、受験科目に選ぶかは受験生次第

■日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか

 

いいかげん納得のいく理由を教えてくれ。


今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。

 

おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根本的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。

 

ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。

 

専門的な学問を「受験」で強制するのは違うだろ、って話。

(日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか)

長いので、一旦、切らせて頂きます。

 

センター試験の国語に、古文・漢文の古典が入っています。まあ、本日のTwitterで言いましたし、はてなブックマークのコメントにも書かれていた方がいましたが、

  • なら、一部(の国立大)で始まってるAO入試や、私立大の古典の要らない一般入試を選択すべき。

という一言に尽きると思います。私自身がセンター試験を受けず、国立大の学部受験を諦めた人間だという立場から申し上げると、センター試験の国語でも、古典分野の配点は現代文分野に比べて、そう高くはなかったはずです(違っていたら、すみません)。

極端なことを言えば、センター試験で古典分野での得点分は捨てて、その分、現代文分野の得点を増やすという作戦もとれるかと。

 

苦手なもので、私が数学的思考がどうしてもできないのと同じように、古典分野を脳が受け付けない人がいるというなら、大学入試では相応の入試方式を選択し、その対策を練るのに時間をかけたほうが有意義だと、私は思います。いかがでしょうか。

 

 2-2.古典分野が必要な理由~現代日本の法律文には古典の文語体の名残あり~

どうして、日本国のセンター試験、大学入試には古典が科目に入っているかという理由は、今回の増田さんが書いていらっしゃる中にヒントがありました。

 

「大学受験には選択科目があるのだから、嫌ならやるな」っていう反論があるだろうか。話にならない。嫌でもやらなきゃいけない構造について問題にしているんだ。

 

たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。一流の弁護士になって、社会に貢献したかもしれない。彼の可能性を、人生をダメにしてまで、「古文・漢文」は受験科目として”必要”だと言うのか。英語や数学で落ちたんなら、まだ分かるよ。しょうがない、浪人して一年頑張ろう、って気持ちになれるだろうよ。でもさ、「古文・漢文」なんて死んだ言語で18歳の人生を左右すんなよ。元カレが忘れられなくて新しい恋に進めない女子かよ。国家レベルで失恋引きずるな。

(日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか)

はい、弁護士志望の受験生の例を出してくれています。極端な話、東京大学の法学部に行かなくても、弁護士になっている友人が身近にいる私としては、東大に行かなくても弁護士にはなれます。

 

ただし、東大等の国公立大学を含むセンター試験に古文・漢文が含まれていることには、私の邪推ですが、それなりに意味があるんです。ハッキリ言って、「本当に法律が好きで、法律について学びたくて」、それなりの大学に行くには、古典分野の「古文・漢文」は最低限、素養として必須なんです。理由は、前近代、近代日本の法律について、法学部をはじめとする社会学系、または人文科学系のゼミで講読する際、古文・漢文から引き継いでいる文語体の法律文を現代日本語訳しないといけないから、です。

 

そのことに気づいたのは、近代日本の朝鮮半島や台湾の統治に関する通達や、政策の文章を研究している、当地出身の留学生が身近にいたからです。古文・漢文調の文語が活字で出てくるわ、出てくるわ、一緒に現代日本語で意味をとろうとした私は、漢文の素養があっても、古文の助動詞や助詞の使い方を忘れていて、大変でした。

 

そういった戦前の文語体の法律文章は、現在の日本の法律文にも一部ですが、引き継がれていると聞いたことがあります。ついでに言うと、そこに戦後のGHQのある程度の関与もあって、欧米の司法的な文言を当時の日本語に訳した文章が入ってきたらしいです。そういうわけで、日本の法律文章は、よほど訓練されていない人でないと、サラサラと意味を読み取ることができないでしょう。

 

このことは、何も古典分野に限りません。もうちょっと、言葉を補えば、ガチの法学専攻に限らず、人文・社会系では外国の法律文章を原典で読ませることがあるらしいのです。例えば、現代中国の司法ゼミなら、現代中国語が読めないと話にならないようにね。日本の法律ゼミなら、やっぱり、高校レベルの古典の読解や現代語訳の力は要るでしょう。 

 

先に、人社系と言ったのは、何も法律の研究やるゼミが法学部ばかりではないからです。現代史や社会学、教育学などでも、法律のテキストを読むことはあり得ます。日本の教育に関する法律や指導要領の一部は、米国のデューイの思想を取り入れたものとされていると、教員採用試験の対策予備校で習いました。

 

以上のように、文系の受験生がどの進路に進むにしても、弁護士になろうと、国会議員政策秘書になろうと、学校教員になろうと、会社員になろうと、農家になろうと、どんな職業に就いても、高校レベルの古典分野の素養があったほうが、よいのでしょう。 いざ、トラブルで該当の法律を読まなければならなくなった時、いろいろと、専門家と話す際に法律の意味が読解できると、助かるんじゃないでしょうか。

(実際、教育支援が必要な生徒について、会議をした時、私は臨時講師とだった時、「法律の知識は必要だ。専門家にかみ砕いてもらうのもありだけど、自分自身が解釈できないと困る」と上司が仰っておられたのを覚えています。)

 

極端な話ですが、私は古典分野の素養は、法律文を読むうえで、身を助けることがあるので、教養以上に必要だと考えました。

 

 2-3.匿名ダイアリー筆者が言う「古文・漢文は受験科目にするな」について

こういうことを言うとすぐに保守的な人たちが湧いてきて「日本文化ガー」「伝統としての教養ガー」と言い出すが、まぁ、たしかに分からなくもない。「色んな学問に触れる機会を与える」のは大切なことだ。色んな文化に触れるのは、良いことさ。おれは別に面白いとは思わなかったが、漢文に出会い興味を持った学生が古典研究者の道に進むことだってあるだろう。そういう"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない。

そ れ を 受 験 科 目 に す る な 。

「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。

(日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか)

たとえ、古典の研究者にならなくても、 法律文を読む上で高校レベルの古典の素養はあったほうがいい、と私は前項で述べました。高卒で就職するにしても、労働に関する法律が読めても解釈できる土台がなければ、ブラック職場に配置された場合、命がかかわるんじゃないでしょうか。そういう時、極端ではありますが、法律文を読む素養は必要ではないでしょうか。だから、センター試験にも古文・漢文は受験科目に入っているのでは?

 

匿名ダイアリーの続きを読んでみましょう。

あるいは、受験の時点で就職活動が始まっているのかもしれない。どう考えても意味のないタスク、心からやりたくないようなタスクをそつなくこなせる人材を、大学側が要求しているのだ。はっきり言うが、愚直にも「古文・漢文」をせっせと暗記してきた連中は、生涯奴隷だ。


それでも、それでも、それでも、

やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。

(日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか)

少なくとも私は、ブラックな職場で言いなりにならないために、「古文・漢文」を学ぶ必要があると考えています。加えて、古典と同じく、暗記科目とされる社会科の知識と合わせて、世の中の仕組みを考えれば、心身がボロボロになる前に、トラブルが起きた時、対処する方法を調べることができる可能性は高くなるでしょう。

 

なお、現在の大学の法学部のゼミには、近代の法律に関する文書も読めないといけないらしいです。が、現代の法律文だけで膨大な量になり得ます。戦前日本の法律が引き継ぐ、古典の訓読方法まで、今の大学で教える余裕はありません:

naka3-3dsuki.hatenablog.com 

外国の司法に関する素養では、ドイツ語やフランス語等を大学の1年次で教える仕組みはありますけれどね。

 

あと、追記の部分については、2-1~2-3に解答を混ぜていますので、もとの増田さんのエントリー記事と合わせてお読みいただけたら、幸いです。

 

 

3.さいごに

長くなりましたが、日本のセンター試験や大学入試で、古文・漢文が課されているのには、日本の法律文には古典の文語体の文章が引き継がれており、万が一、法律が必要になった際、当事者自身が法律文の読解をできたほうがよい、という理由を述べさせて頂きました。

 

本当は、誰もが全科目できたほうが、この世の中をサバイバルしやすいのでしょう。が、誰もが誰も、そういうわけにはいきません。現に、私は数学的思考ができませんから、他者の力を借りて、プログラミングのできる人に助けてもらうことがあります。ただ、助けてもらう時、私は何もやってもらっていることが分からないよりは、簡単でも仕組みや理屈が分かっていた方が、自分が安心ではあると認識しております。

 

そのような意味において、古文・漢文は、教養以上に役立つことがあるのです。

 

おしまい。

 

 

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