仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

闘蟋や文玩胡桃といった中国の生活文化趣味と「新疆のクルミ」の思い出

<中国の士大夫の生活文化趣味の紹介>

  • 1.はじめに
  • 2.「闘蟋」について
  • 3. 「文玩胡桃」のこと
  • 4.食用胡桃の思い出 
  • 5.最後に

1.はじめに

メンヘラ.jp編集長のわかり手さん、および副編集長さんに、最近送った読者投稿の件でいろいろと問い合わせをしてしまい、ご体調やご多忙なところ、負担をかけてしまって、恐縮な日々でした。ありがとうございました。

 

さて、わかり手さんは何がきっかけだったのか、直接お尋ねしていないので、不明なのですが、闘蟋のために中国へ渡航されたり、その道具関係の販売サイトをTwitterでシェアされたり、ごく最近だと、「文玩胡桃」(簡体字だと”文玩核桃”)で手のマッサージを行い、健康促進を試みられたり、それなりに歴史のありそうな、中国の生活文化趣味を持っておられています。

 

 

2.「闘蟋」について

闘蟋」については、次の本を紹介して頂きました: 

今から十数年前の発行、といえば私が初めて中国に行った二年後くらいのお話です。リンク先のAmazonのキャプションには、

闘蟋」―それはコオロギを闘わせ、ひと秋をかけて“虫王”を決める遊び。飼い主たちは、戦士の育成に持てる金と時間と知識のすべてを注ぎ、熱中のあまり家屋敷を失ったものは数知れず、一国を滅ぼした宰相さえいた。一二〇〇年の時を超え、男たちを魅了し続ける中国の闘うコオロギとは。

闘蟋―中国のコオロギ文化 (あじあブックス) | 瀬川 千秋 |本 | 通販 | Amazon

って、皇帝や王侯貴族(中国だと士大夫)が庭園に凝るのと同じレベルで、熱中すると、国を亡ぼすレベルの楽しい「趣味」だったのが、この闘蟋」らしいです。コオロギ闘わせるのに夢中で、国政をおろそかにしたという宰相がいるのは、北宋徽宗皇帝が珍しい石を運んで庭園を造ろうと民を動かして、反感をいろんなところで買ってしまい、その隙を外部勢力につかれてしまった、というのと似ている気がします。

 

今でも親しまれている闘蟋」は、中国の生活文化に根付いたものですが、それにしても、あの土地の人たちは、造園や闘蟋」にはまってしまい、どうして仕事を放って国を傾けるようなことを繰り返してしまっているんでしょうかね?

逆説的に言えば、それだけ、闘蟋」が人々を魅了してやまない楽しみを持っていたといえるでしょう。そういった現代人的な観点からも、この本を読んでみたいです。

 (なお、この本は「恵んで下さい」リストに登録しています。ぜひ、どなたか篤志家の方、恵んで頂けないでしょうか)

 

ちなみに、著者の瀬川千秋さんは、wikipediaにもぺ―ジが立っていました:瀬川千秋 - Wikipedia

ここの情報によると、本書で「サントリー学芸賞受賞」。人文科学系の研究者が単著で受賞するのでポピュラーな賞を受けています。他の訳書をチェックすると、魯迅の子のインタビューを共訳しており、「出版社のアルバイトを経て、フリーライター。中国語の翻訳、中国の民間文化や芸術を研究」と説明があります。在野研究者の臭いがする人でありました。

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【続報】外部機関のアカハラ対策への活用について~衆議院議員 河野太郎「雨もしたたる研究者の皆様へ」~

本日は、次のアカハラに関する第三者機関活用の続きとなります。:

naka3-3dsuki.hatenablog.com

 

河野衆議院議員の公式サイトで、次の報告が出ました:

www.taro.org

 

f:id:nakami_midsuki:20170616154333j:plain

 

アカハラ対策に関する部分だけですが、転載させていただきますこと、ごめん下さい。

 

雨もしたたる研究者の皆様へ

2017.06.06

 

アカハラ
深刻なアカハラが起きているということ、各大学の内部ではなかなか対応できていないということは文科省にも共通認識があります。

 

そのため、文科省から国立大学に対して学外にアカハラ対応の機関を設ける取り組みを求めてきました。

 

平成18年度から外部の民間相談機関を活用し始めた群馬大学は、導入当初と比べて相談件数が3倍に増えており、また、平成28年4月に外部のNPO法人と契約した関学は平成26年度と比べ、平成28年度は相談件数が6倍に増えた等、事例を紹介してきています。

 

国立大学ごとのアカハラ対応の外部機関の一覧表を文科省のホームページの最もわかりやすいところに設置してもらうと同時に、外部機関の設置に期限を設けるよう文科省に申し入れしています。

 

文科省は、外部機関の設置状況の調査をはじめます。

雨もしたたる研究者の皆様へ | 衆議院議員 河野太郎公式サイト) 

 

冒頭に示した前回の河野議員の報告と比べて、新情報がアップされています。

 

それは、第3段落の外部の相談機関や団体に活用した群馬大学、および関学の事例です。

平成18年度から外部の民間相談機関を活用し始めた群馬大学は、導入当初と比べて相談件数が3倍に増えており、また、平成28年4月に外部のNPO法人と契約した関学は平成26年度と比べ、平成28年度は相談件数が6倍に増えた等、事例を紹介してきています。

雨もしたたる研究者の皆様へ | 衆議院議員 河野太郎公式サイト

相談件数が群馬大学は導入した年から3倍、関学の場合は6倍に増えた、という数字だけで、けっこう、 インパクトがあります。この増加をどう見たかというと、私は外部に相談できる場所ができたということによって、それ以前に当事者たちが出せなかったことが一気に相談数に表れたのではないかと思いました。

 

国立大学ごとのアカハラ対応の外部機関の一覧表を文科省のホームページの最もわかりやすいところに設置してもらうと同時に、外部機関の設置に期限を設けるよう文科省に申し入れしています」という報告が出てきますから、日本の教育・科学行政のトップから各国立大学へ、外部機関の利用を通達することになるのではないでしょうか。

 

前回の記事でお知らせしましたように、来週には、

アカハラに関しては、6月19日、21日に行われる国公私立大学の教務連絡協議会で、第三者機関の活用に関する説明を行うことになっています。

文科省としても今後、踏み込んだ対応をしていく予定です。

(お花見中の研究者の皆様へ | 衆議院議員 河野太郎公式サイト)

という教務連絡協議会で説明が大学になされるそうですから、今回の続報の、更なる続報として来週以降、河野議員の報告を待ちたいと思いました。

 

以上、外部機関のアカハラ対策への活用に関する続報でした。

 

 

【朗読 #ツイキャス 】魯迅『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫)とその他著作の紹介

<今回の内容>

1.はじめに

「構音障害」のことを書いて以来、聞き取ってもらいやすい発音の仕方を認識するべく、ツイキャスで朗読をやってみることに致しました。今まで、中国の古典文学を題材にして研究をしてきたこともあり、それなら時代を下って、中国近代文学を代表する作家の魯迅の作品を音読することに致しました。

 

選んだ日本語の作品集は、次の藤井省三訳のバージョンです:

 

 

2.魯迅について

 魯迅は、清朝末期の1881年、現在の浙江省紹興市の士大夫の家系に誕生。貧しい家庭でしたが、学問を学ばせる伝統があり、18歳で南京の理系の学校に4年間通う間、西洋の進化論など、新たな思想に触れる。以降の経歴は、Wikipediaによると、

1902年、国費留学生として日本に留学した。国の人々を救うためには最も良いと考え、医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた。ニーチェダーウィンのみならず、ゴーゴリチェーホフ、アンドロノフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた。ヴェルヌの科学小説『月界旅行』、『地底旅行』を翻訳する[5]。1904年、仙台医学専門学校に最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した。特に解剖学の藤野厳九郎教授は懇切丁寧に指導し、彼もその学恩を終生忘れなかった。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。当時、医学校では講義用の幻灯機で時折日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した。その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた。

魯迅 - Wikipedia

 

Wikipediaでは、次の魯迅の考えは竹内好訳からの引用ですが、本記事では藤井省三訳を引用致します。

あのとき以来、私には医学は大切なことではない、およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに健全だろうが、なんの意味もない見せしめの材料かその観客にしかなれないのであり、どれほど病死しようが必ずしも不幸と考えなくともよい、と思ったからである。それならば私たち最初の課題は、彼らの精神を変革することであり、精神の変革を得意とするものといえば、当時の私はもちろん文芸を推すべきだと考え、こうして文芸運動を提唱したくなったのだ。

(魯迅藤井省三訳『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫)、p.254)

 

その後、仙台で藤野先生と別れた後、東京で雑誌や翻訳作品集を出版したものの、あまり売れなかったこと、それから日本人の友人ができなかったことがあったのか、魯迅は帰国。

 

浙江省杭州紹興の中学校教師として生物学の教師として勤務し、1912年中華民国政府が成立すると、教育部の事務官の職位に就き北京に移住。中国古典籍の研究に没頭するなどして、しばらく隠遁者的な生活を送った後、上に挙げた藤井省三版の文庫にも収録された『狂人日記』を、陳独秀の発刊した『新青年』に発表。そこから、白話運動(文語をやめて、思想を「白話」=口語で表現する文学運動)を通じて、旧来の儒教道徳を批判を中心とする「文学革命」を目指して、西洋の技法を取り入れた小説「故郷」や「阿Q正伝」等を次々と発表していきました。

 

現在では、東アジアで広く読まれるほど、近代中国を代表する作家である魯迅ですが、その後半生は、激動の近代中国に生きたこともあってか、波乱万丈なものと言われています。気になる方は、先のwikipediaのページほか、調べて見られることをおすすめします。

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