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仲見満月の研究室

元人文学系、現・文理総合学系の「真っ白」博士が大学院とその周辺問題を考える

文系院生にとって不可避の「言葉と向き合うこと」の苦悩~花坂埖さんのお悩み相談の体験記事から考える~

研究生活 生き方 文系 言語の話 院生

<今回の内容>

1.長い前置き~言葉と向き合うことに苦悩する人々~

ホットカーペットに、段ボール2個、ひざ掛けで簡易コタツを再現しつつ、PCを広げて、この記事を書いております。

本ブログの主題のひとつは、文系院生の生き方を考えるということでした。そもそも、文系・理系という言葉は、それぞれ「文科系」・「理科系」の略語だったらしいことを最近、改めて知りました。例えば、以前の記事↓

naka3-3dsuki.hatenablog.com

で、台湾の中華民国大総統李登輝氏が日本統治下の台湾から日本の京都帝国大学農学部に在籍中、1943(昭和18)年、日本から「台湾系日本人」として「学徒出陣」することになった時のこと。上のリンク記事で取り上げた『街道をゆく40 台湾紀行』では、著者の司馬遼太郎氏によると、

当時、学生には徴兵猶予の特典があったが、第一線の兵員不足、とくに消耗のはなはだしい下級士官の不足が深刻になっていたため、その特典が文科系にかぎって取り消された。

 農学部理科系ながら農業経済だけは文科だから、李登輝さんもこれに該当した。

 そのこと私は自分が入営することにかまけて台湾出身の学生も兵隊にとられたとは、知らなかった。徴兵の義務は、従前どおり、日系の者にのみあるとおもっていた。

 が、意外にも、李登輝さんも時代の隊列のなかにあった。

という事実があったそうです。下線部を見ると、戦中から日本には、文科系・理科系の別があったのです。ついでに指摘すると、経済学は「文科系」、農学は「理科系」と認識されていたことも分かります。

 

さて、この文系の学問は、これまで理系寄りと行ってきた考古学・地理学・心理学、個人的に私が思うに、がっつり文章を書く歴史学、文学、民俗学といった分野まで、専攻した大学院生が逃げられない作業があります。それは、日本語にしても、英語にしても、中国語にしても、どんな言語であっても、それを使って論文を書くという行為。すなわち、言葉を編んで文章を作っていくというプロセスです。そして、アウトプットとして言葉を吐き出す論文作成作業があるなら、インプットとして読書の作業が存在します。それも、好きな解釈で本を読んでいいわけではなく、例えば歴史学なら事前に中国史だと『史記』や『漢書』、西洋史なら各地域の年代記の成立過程や特徴を踏まえ、さらに諸々の先行研究を先読みした上で最近の学説を整理。その上で、自分が予測を立てて、新たな事実を発見し、その証拠を集められるように史料に目を通していかなければならない。これこそ、文系にとっての研究という行為なのです。

 

まあ、大学の文系学問の先生や学生、それから中高の文系教科担当の先生は、課題にしても、仕事にしても、分野ごとの(暗黙の)ノウハウにそって、インプットの読書、アウトプットの文書作成をしているわけです。私も教育関係のフリーターをしていた時も、院生時代から引き続き、こういう研究に当たる作業をしておりました。ぶっちゃけ、死にそうになり、嫌に感じるときもありました。

 

文系院生には、最初は特定の文系分野の本を読んで、感想を仲間とおしゃべりするのが好きだったし、その感想を文章にするのは苦じゃなかったはず。それなのに、どうしてこんなにも疲労する瞬間があるんだろう。少なくとも、私は卒論・修論・博論を書いている時、このような苦しさを抱えていました。隣の建物の化学系研究室の院生は、化学式ばかりの論文を書いていて、何だか負担がなさそうだな、とも捉えていた時がありました(実際は、彼らにも、論文前に実験という苦しい作業があるらしいのですが)。

 

この「言葉と向き合うこと」の苦悩は、読書と文章作成が作業プロセスにある職業、すなわち、文筆業の多くの人たちが抱える悩みらしいのです。というのは、先週、私がアカハラ問題の読者投稿文を載せて頂いたメンヘラ.jpを徘徊していたところ、次の記事にたどりつき、知ったのです。 

menhera.jp

 メンヘラ.jpのライターの一人・花坂埖さんが「言葉と向き合うこと」について、「回答者がお坊さん」というお悩み相談サイトhasunoha.jpに質問されたことを、体験談として記事に書かれていらっしゃいました。

花坂さんの体験談を読むうちに、「言葉と向き合うこと」は、本ブログで扱う文系院生の生き方にとって、研究活動上、本質的に切っても切れない問題ではなかろうか。私はそのように考え、本記事で花坂さんの体験談記事を紹介しつつ、この「言葉と向き合う」ことの苦悩について、文系院生、そして文系研究者の人生に引きつけて、再考に挑戦することに致しました。

 

先に、拙ブログで体験談の記事を紹介させていただくことに許可を下さった花坂さんに、重ねて、お礼申し上げます。

 

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2.花坂埖さんのしたお悩み相談の概要

 体験記事では、まず花坂さんのhasunoha.jpの相談内容が引用され、その後ろに3件ほどお坊さんの回答が引用され、引用部分の間に花坂さんのコメント入るという形式。本項では、花坂さんのお悩みの概要を箇条書きにして、要約に近い形にして紹介させて頂きます(大切な部分が落ちていたら、フォローください!)

 

  • (花坂さんは)Webライターの活動でhasunoha.jpを編集者の紹介で知った。
  • 今回の花坂さんの相談内容は「大好きだった言葉と向き合えなくなった」こと。
  • 花坂さんにとって、成長過程で「友達の代わりになってくれたのが本の存在」であり、読書は彼女にとって、寂しさを忘れさせ、自由にしてくれるほど、重要なものになっていた。
  • 読むものは、ネット上のブログから週刊誌の記事にまで広がるほど、言葉を読むのが好きになる一方、手紙や作文を書くといった「言葉を書く」行為が、彼女にとってかけがえなく、そして一番得意なこととなっていった。
  • 言葉を読む・書く行為は、花坂さんによって「世界とうまくつながること」だった。
  • ある日、突然言葉を読めなくなった。「急に自分は最低な人間で」、言葉を読み、書きする価値のない人間のようになったから。
  • 楽しいと感じるほどスムーズに言葉を読んで、書けていたのに、それらが苦痛な行為となってしまい、そんな自分には存在価値がないと思い、一時期、「言葉を通して世界とつながる」ことを諦めかけていた。
  • だけど、花坂さんは自分が言葉が好きなことに気づき、読む・書くという行為にしがみつこうとした。「たぶんそれしか打開する方法がないから」だと。
  • それでも、言葉を読むこと、書くことは「とても苦しく」、それらができなくなった自分に対し、悲しい気持ちがある。
  • 「お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?」と問いかけ、花坂さんは、言葉を読むこと・書くことができなくなった自分はこのまま変わらない状態が続くのか、質問をする。
  • 最後に、「大好きなことができなくなったWebメディアの読者の方へのメッセージをいただけると幸いです」と述べて、お坊さんたちに回答をお願いしている。

 

申し訳ありません、花坂さん。ほぼ、丸ごと引用する形になりました。このままで、大丈夫でしょうか?

 

質問を拝読して、私も一度、成長過程で通った道を、花坂さんも通られたんだなと、シンパシーを持ちました。

 

私の場合は、小学校低学年の時に親友が転校してしまい、高学年になるくらいまで、お小遣いでレターセットを買い集めて手紙を書き、文通したところが入口だったと思います。並行して、中学までいじめやら、校内暴力やらが問題となった学年にいたこともあり、思春期は学校の図書室、週末は公立図書館に逃げ込んでは本を読み漁るわ、「嫌な同級生や教師、許すまじ!」と憎悪にかられて不快なことや不満な出来事を日記に詳らかに記録するわ…。陰湿なローティーンの日々でしたが、読んでた本にあった某週刊少年漫画誌版『封神演義』と日本語版児童書から東洋学に興味が向き、そこから中国先秦時代の学術書にも出会い、実際に中国にも友好都市訪問団員として中国華北に行きましたし、日記行為が発展した雑記する癖は、論文を書く上で欠かせない「記録魔化」の原点にもなりましたので、今となっては、マイナスだらけでもなかった思春期でした。

 

 

3.一応「文系院生」だった私の「言葉と向き合うということ」

花坂さんのお悩み相談を受けて、ここで少し、一応「文系院生」だった私とこの問題について、話をさせて頂きます。

 

本を読み、言葉を組み合わせて文を編んで、さらに文をまとめて整理して、長い文書を作成すること。本格的に、私がそれをするようになったのは、高校の受験対策の小論文、そして、歴史学者のエッセイを読んで自分の考えを執筆する大学入試本番でした。

 

大学入学後は、教職課程をとっていたこともあり、多忙な日々の中、とにかく一ヶ月で3000~4000字の課題レポートを12本以上、書いて月末に提出する年もあり、課題に合わせた学術書や論文を借りてきて、その数ページを読んでは重要なところを書きだし、自分の意見や感想を挟んでいく、という無茶なことを続けていました。言葉のひとつひとつの重みよりも、「いかに速く、文を吐き出してつなぎ合わせ、大量の文章を作り、課題レポートを生産していく」というスピードのほうが、学部時代に重視していたことでした。

 

「言葉と向き合うこと」を真剣に求められたのは、大学院に入学してからでした。面倒なことに、論文を書いて、特定の学術ジャーナルに投稿しようとすると、重要な単語、つまり言葉ひとつずつについて、執筆者が論文の中で解釈をし、定義づけをしてから本論、結論へと話を展開しないといけないことが発覚。おまけに、言葉の解釈や定義、一般的には「意味」というのは、アカデミックな世界では分野によって、微妙に違ったり、大きく異なったりするのです。

私のような文理総合系大学院にいると、隣の研究室が自分の研究室と全く異なる畑のことを専門としていて、とにかく、話が通じない!そういうわけで、院ゼミだけでなく、飲み会の議論で研究の話題が出ると、まず言葉の「意味」から説明しないといけなくて、煩わしいこと、この上なかったです。お酒の席くらい、研究のことを忘れたかったのが正直なところですが、そうもいかなかったのが、大学院というところ。

 

私がいたところよりも、ほぼ毎日、言葉の使い方に神経を研ぎ澄ませないといけない場所とは、非常に精神に疲れをきたしやすい環境です。おそらく、そこが文系の人文・社会学系の大学院の部局。そういうわけで、「本を読むのがつらい」、「何も、書きたくない」という「文章アレルギー」の症状が、たときどき、文系大学院生には現れます。「おら、こんな文献読むの、いやだぁ~」と叫びまくる人がいても、不思議ではないのです。

 

それでも、研究を前へ進めるために、必要な文献を読んではメモをし、文章を紡ぎ出す作業は続けなければいけません。最初は大好きだった、「読んだり、書いたり」することを、どうして、文系院生は嫌いになるのでしょうか?嫌いになった時の突破口はあるのでしょうか?その答えを、花坂さんの質問に対するお坊さんの回答に求めたいと思います。

 

 

4.お坊さんから花坂埖さんの相談への回答

 4-1.「真剣になるとたいてい苦悶の連続です」

 「真剣になるとたいてい苦悶の連続です」というセリフから始まるご回答は、「以前、社会学の研究者を目指して」いた百目鬼洋一さんというお坊さんから。

 

百目鬼さんも、子どもの頃から本好きで、成人に近づくにつれて、ルポルタージュとか、紀行文とか、ノンフィクションのジャンルを読むようになったそうです。大学に進学後、「社会学関係の書籍」に取りつかれたようで、「もっと深く本格的に勉強してみたいと思い、渋る親を説き伏せて大学院に進学」されたそうです。

 

ちなみに、このお坊さんの親御さんは教員。こういっちゃなんですが、文系・理系関係なく、アカデミアから離れた院生(修士・博士の両課程とも)の一部は、中高の教員として就職する傾向があります(大学院を離れる理由は経済的なこと、人間関係など、さまざま)。私がフリーター時代に知り合った高校教員の理科の先生は、地域の理科教員仲間で研究会を作り、その都道府県の地層を調べて、論文集を地方新聞社から出版されていました。そういうわけで、百目鬼さんの親御さんが大学院進学を「渋った」のも、研究の厳しさ、および大学院の外で研究できる方法を知ってらっしゃったからかもしれません。

 

回答内容に戻ります。院に進学後、研究の「トレーニングとして社会学の文献と向き合うと、これほど苦しく読み辛いものはなくなって」しまったそう。好きなことでも、義務になると、途端に苦しみに変わるというヤツですね。ここで百目鬼さん、よく学生にあることですが、自分は向いてない進路へ来てしまった、と焦ります。ところが、苦しんでいた大学院生は自分一人だけでないと気づき、何と指導する側の教員まで、「皆、ウンウン苦しみながら文献と格闘」していたようでした。

 

そうそう、私の指導教員の先生も、よく頼まれた学術雑誌の原稿執筆を始めるのが遅くて、先輩Yさんや私がギリギリになって推敲のお願いされることが、何度もありました。学術ライターとも言える大学の先生だって、研究は楽しいことばかりじゃないんですよね。

 

すみません、回答を少し中略して、戻ります。ここからが、元院生経験者の百目鬼さんだからこそ、言える重要なことだと思いました。引用させていただきます。

思うに、趣味の範囲で楽しめていたものも、真剣に正面から向き合うような構えができると、とたんに相手は辛く手ごわいものに思えてしまうのではないでしょうか。

 

好き好き、だけで楽しんでいたものが、楽しめなくなり手ごわいものとして見えてくるということは、案外、自分の構えや力量が、それと正面から対決できるレベルにまでなった印と考えることもできるのだと思います。

http://menhera.jp/1614より引用)

 

以前の拙ブログ記事「研究は趣味か、職業としたいのか」で、悩んだとおり、結局、あることを、

 ・趣味として楽しめる程度にとどめておくのか

 ・お小遣いを得る程度のアマチュアレベルにするのか

 ・メシを食える真剣に正面から向き合って職業にするのか

というような、取り組むレベルを自分で考え、決断しないといけない。そして、この決断を自分で自分に迫られ、どうしても「けじめ」をつけないといけないという検討がつくようになった時が、「自分の構えや力量が、それと正面から対決できるレベルにまでなった印」と考えられるようになった時期なのだと、私も思いました。私にとっては、博士号を取得し、大学院から出た後、身の振り方を落ち着いて考えられるようになった今かな、と。

 

ここで、私は「これからは、アカデミックの一歩、外の世界で生きる道を探してみよう」と就職活動にチャレンジ。全部、落ちましたが、このブログ、それからTwitterでの活動を通じて、半年前に捉えていた「アカデミックの一歩、外の世界」と少し異なる「外の世界」に踏み出そうかな、と思い始めております。

 

 4-2.「好き、にこだわらない。」

この一言から始まる回答僧・佐藤良文さん。このお坊さんは、『最後の秘境 東京芸大』みたいな題の本を読まれたそうです。

たぶん下の本ですね。正直、私も気になっていた本なので、こちらのリストに追加しましたので、気が向いた方は恵んでください。 

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

 

この本を読んだ佐藤さんは、花坂さんとは「ジャンルは違うけれど、「その道」では腕一本で生きていこうとしている方々です。」と述べ、

その中に、「嫌いになっても、何故だか離れられないんですよ」と、ご自身の専攻について語っている人がいました。

http://menhera.jp/1614より引用)

と、文系院生が研究が苦しくて、読むのも書くのも「いやだぁ!」と叫んでいる時、伝えたくなる言葉を、さらっと語っておられます。つまり、好きなことっていうよりは、理由はわからないけれど、離れられないこと、これに関わることをしていないと落ち着かない物事、といったほうが、読者の方には伝わりやすいでしょうか。

 

回答に再び、戻ります。佐藤さんは言葉を扱うのは嫌いではないようですが、参加しているhasunoha.jpの質問に回答を書き続ける中で、勢いが落ちることがあるそう。そういう時、佐藤僧侶は「正直に、暫く離れる」ようです。離れている間に新しい体験をして、「今まで持っている言葉を意味付け・解釈し直すという期間」だったと捉えている模様。私の解釈では、離れる期間を設けることで、新しい体験が間に入り、気持ちが変化して言葉と向き合えるようになる、ということがあるのかもしれません。 

 

言葉を使う技術については、これも研究論文を書き続けなければならない文系院生には、ぜひ、伝えたいことです。

何事も「好きだけでは成し遂げられない」ということです。つまり、技術を磨かねばならないということ。芸大の人も同じですが、我々も言葉の使い方は技術として身につけねばなりません。

http://menhera.jp/1614より引用) 

具体的な言葉を扱う技術、もっと言えば、文章を書き、学術雑誌の既定に合わせて、的確な論文を書くメソッドについては、これから私もお恵み頂いた書き方本で学ぶ前段階なので、ここでは書けません。ひとつ言えることは、在野研究者の荒木優太氏がおっしゃっていたことで、「自分の研究に関係する学術雑誌の掲載論文に目を通すことで、感覚的に雑誌ごとの書式、書いたらNGな範囲といった特徴がつかめてくる こと」です。

 

続けて、「書けない」現実との向き合い方に関しても、佐藤僧侶は腑に落ちる回答を寄せていらっしゃいました。

「書けない」という現実に素直になる。「涙は出てるけど、悲しくない」って言い張っても仕方ないでしょう?またネタがたまると、ふっと書きたくなるんだろうな、と思う程度です。「好きなものは、好きでい続けなければならない」ということはないのです。仕事だから書く、ということであれば「好き」という感情に依存しないことが必要と思われます。

http://menhera.jp/1614より引用)

文系院生なら、文献読みも執筆も苦しいという現実に素直になる。その上で、自分が今まで蓄積してきた知見から何が言えるのか?その知見を繋ぎ合わせて、見えてくることは何か?または見えていたことに筋を付けるには、どう情報を組み直せばよいのか?など、「「好き」という感情に依存しない」 で、時に感情を排し、機械的に研究作業をやっていくことも必要だと言えるでしょう。

 

このあと、花坂さんの質問には2名のお坊さんからご回答がありました。しかし、私が本記事で主題としている、文系院生にとっての「言葉と向き合うこと」の問題とは少し、趣旨がずれるため、今回は紹介を割愛させて頂きます。ご寛恕ください。

 

 

5.お坊さんからの回答から見えた文系院生として「言葉と向き合うこと」

 以上、花坂埖さんの「大好きだった言葉と向き合えなくなった」というお悩みについて、元社会学院生の立場から回答された百目鬼洋一さん、そして『最後の秘境 東洋芸大』を入口に回答を展開された佐藤良文さんのお二人を通じて、今回の記事タイトルの「文系院生にとって不可避の「言葉と向き合うこと」の苦悩」について、答えを整理してみたいと思います。

  

 5-1.元社会学院生のお坊さんの回答を参考に、私が考えた答え

好きだった研究、特に読む・書くことに対し、手ごわいものだと感じるようになったら、それは、研究や読む・書くことに対して、自分が真剣に向き合えるほどのレベルに成長した証拠。どうしても、この決断を自分で自分に迫ってしまい、「けじめ」をつけないといけない状況になってしまった場合、自分の気持ちに正直になって、その後の身の振り方を冷静に考えたほうがよいでしょう。

 

また、その時代ごとの地域の大学や研究機関の求人倍率、国家や民間からの研究費の潤沢さなど、そういった資本の過多も入れて、自分が文系研究者として、言葉を使って論文を生産し、勝ちあがっていけるか。そこまで、真剣に向き合い続けられるか、といった取り組み方を考える上で、さくっと調べてみるのもおすすめです。

 

学費が払えそうもない状況になった(アルバイトに忙しすぎて本を読む時間がとれない)、研究室の人間関係に耐えられなくて今の大学院を離れたい(アカハラなども含む)、といった外的要因が重なった場合、精神的に「言葉と向き合う」余裕がなくなることもあるでしょう。その時は、一度、つらい環境から離れ、別の仕事を得てから後、もう一度、研究の世界に戻っていくこともできます。

 

 5-2.佐藤良文さんの回答を参考に、私が考えた答え

嫌になっても、理由が分からないけれど離れられないという物との出会いは、非常に生きていく上で、強みになる要素だと私は捉えました。文系院生にとって、それが物事の探究、および探究したことを言葉を使って文書に表現するという技術があれば、応用の利く仕事の武器になります。例えば、東洋学の分野で言うと、中国史を専攻されていたという、広島大学大学院在学中に中国に留学経験ありで、院卒後は企業勤めをした後、フリーライターとして活躍中の安田峰俊さんのケース。経歴上、安田さんはおそらく修士課程までに得た中国史の研究手法と文章の書き方(日本語・中国語とも)を武器に、チャイナウォッチャーとして、一定のライターの地位を得ていらっしゃるのだと思います。

 

続けていて、それでも嫌なら一度、離れてみること。離れている間に新しい経験や出会いがあって、戻る気持ちが出てくることもあるでしょうし、そうでなくても、離れている期間を持つことで、気持ちが転換されることもあると思います。

 

最後に、仕事で論文なり、書評なり、文章を書かないといけない時、「言葉と向き合うこと」イヤイヤ期にあれば、一度、その気持ちを認めてあげること。その上で、感情を横に置くなりして、例えば、依頼されている仕事の文章の内容を箇条書きにしていくとか、章立てなどの構成から書きだしていくとか、機械的な作業をやってみる。時には、そういった「無理やり、言葉を引っ張り出す」ことも、研究で「言葉と向き合いうこと」でメシを食っていくなら、必要だと私は考えました。

 

 

6.最後に

書き終わってみると、花坂さんのお悩み相談を入口にして、文系院生が研究に行き詰まったら、どうしたらいいのか?という質問への答えを見つけるという結論になってしまいました。ただ、その根本には、研究活動として論文を書くために、言葉を追いかけて、読書でインプット、執筆でアウトプットするという、「言葉と向き合うこと」から不可避な状況があります。

 

詰まるところ、まず、文系院生の適正というものは、大量の文献を読み続けることが出来るか、否か、というところにあるのではないでしょうか。そこから、文系研究者になるには、嫌な時期があっても、何ゆえか、その学問から離れられないということ、です。

 

プラス博士課程まで行く覚悟のある人にできて欲しいこと。これは私個人の見方ですが、1万字レベルの文章をPCで執筆できるように、慣れること。メディアによっては、数千字レベルが目安だと私は思います。が、短い文章だけでなく、長い文章を系統立てた構成で書ける柔軟さと体力も、訓練して身につければ、仕事の幅は広がるかと。実際、紙媒体の『ロッキング』などの音楽雑誌では、1万字インタビューなんていう企画があり、特集号では目玉となっています。

 

そういう本記事は、1万字に達しそうな文字数になってきました。長くなりましたが、文系の研究を大学院でしてみたいな、と考えていらっしゃる方は、まず、このブログ記事を最後まで読み通せるか、挑戦してみてください。

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