大学の在野で研究する者たちへの指南書 ~荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』:前編~
段ボールの簡易コタツの上にPC載せるのが恒例になってきている、毎度おなじみ、ブログ管理人です。本日は、本ブログのあちらこちらにお名前を出させていただいていた、荒木優太氏の下のご著書をやっと読み終えたので、そのレビューを致します。
なお、今回の本も内容が非常に濃いので、本記事の前編、後編と2回にわたってお送り致します。ご理解ください。
<本記事の目次>
1.著者・荒木優太の紹介
1-1.荒木優太の紹介
荒木優太氏の経歴を本書を中心に紹介すると、次のようになります。
・1987年東京生まれ。
・「明治大学文学部文学科日本文学専攻博士前期課程修了」。
(あとがきのp.250に「私には一応、修士号の学位がある」という記述と、明治大学大学院文学研究科の組織構成より、現在の「明治大学大学院文学研究科博士前期・修士課程日本文学専攻」を修了された模様)
・様々なweb媒体に日本近代文学関連の批評・研究を発表(専門は一応、有島武郎)。
・著書は、『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013年、後述)
・論文に、「有島武郎『卑怯者』における子供/達の群れ──〈他者〉論のパラドックス」(『有島武郎研究』18 号、 2015 年3月)、「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(第59回群像新人評論賞優秀作、『群像』11月号、2015年10月)、「不幸な而して同時に幸福な――有島武郎『小さき者へ』と三木清「幼き者の為に」」(『大正文学論叢』第2号、明治大学大学院宮越ゼミ、2016年2月)、「柄谷行人と埴谷雄高(第一回)――「他者」のインフレーション」(『草獅子』第1号、双子のライオン堂、2016年11月)。
(*2016年度の発表論文については一部、著者ご自身の「電子書籍販売サイト・パブ―」の次のページより引用させて頂いた)
1-2.著者が大学に属さない「在野研究者」をする理由
本書あとがきによると、現在、「大学に属さずに、清掃のパートタイム労働をしながら文学研究をしている」(p.250)そうです。どうして、修士課程修了後、大学・大学院に属さないで「在野研究者」として、著者は活動しているのか、という理由は、続きにこう記されています。
そんな院生時代、私はことあるごとに大学教授から、研究者になりたいのなら教師になるしかない、と言われていた。研究職とは同時に教職でもある。至って普通の指導である。
けれども、なにを狂ったのか、 私はそのたびごとに憤怒して、怒りでヘキエキした夜は酒をあおって憂さ晴らしするという日々を繰り返していた。
なにが嫌だったのか。色々あるのだろうが、おそらく一番大きかったのが、研究者イコール教師であるという自明の認識を押しつける、その無自覚な鈍感さに私は耐えられなかったのだ。
もちろん、研究者と呼ばれる者たちの圧倒的多数が大学に所属する教員であることは間違いない。 けれども、その言葉は、諸々の事情で大学には通えずも知的な関心を失わずに毎月刊行される人文系 新刊をチェックしつづける若者や、会社を勤め上げたあとで自分の生涯に物足らなさを感じて固い研究書を初めてひもとく初老の学生を無視しているように感じられた。
そしてなにより、その言葉は、話がつまらなくて毎度ゲッソリする教師嫌いの私に対して、お前は研究者になる資格がない、と宣告しているのに等しかった。
こりゃあ飲むしかない!
要は、研究職にある人=教師であるという認識に対し、著者は、学外で知的な関心を持ち続ける若者や、リタイア後に研究書を読む初老の学生を無視しているようについて、憤りを感じていたらしい。その上、教師嫌いな著者に対して、研究者=教師の図式は、著者が研究になる資格がない、と正面から否定の言葉を突きつけられたのと同じで、酒を飲むしかないほど、頭にきたということ。
ちなみに、研究者=教師という図式は、私も違和感を感じていたところで、著者の気持ちに同意したいです。
憤っていた著者のエネルギーは、そこで研究人生の多くの時間を大学の外で過ごし、業績を残した「在野研究者」たちの評伝である本書を執筆に向かったようです。そして、16人に及ぶ故人の「在野研究者」を通じて、40条もの「在野研究者の心得」を見出し、評伝本文に、現役の大学に属さず研究を続ける者たちへ向けたアドバイスを書きこんでいます。その有益なアドバイスがある故、今回、本書レビューのタイトルに「指南書」と入れさせて頂きました。
それでは、次の項でさっそく、本書の内容を見ていきたいと思います。
2.『これからのエリック・ホッファーのために』の前提
2-1.エリック・ホッファーとは誰か?
まず、本書タイトルに入っている
日雇い労働で糊口を凌ぐ生活に突入し、29のときにモンテーニュの『エセー』片手に季節労働者として各地を転々と渡っていく旅路を経、サンフランシスコの沖仲士 (船から陸への荷揚げ荷下ろしを担う労働(本書p.2)
2-2.荒木氏の言う「在野研究者」とは?
研究という行為の未来を構想するために、過去から学ぼうとした著者は、この日本において、「ホッファーのように狭義の学術機関に頼らずに学的な営みをつづけてきた研究者たち」の研究の営為を在野研究と名づけ、「それに従事する者たちを在野研究者と呼」んでいます。そして、著者は、彼ら16人の「生涯と業績をコンパクトに紹介する」ことで、未来構想図の材料として、ささやかではあるけれど提供することを目指しているそうです(以上、p.5より引用&内容を整理)。
選ばれた16人の在野研究者やその営為には、更に細かな基準は、整理すると次のようになるでしょう。
- ①国立(官立)および私立を問わず、近代的大学(日本では1886年の帝国大学)に所属がなく、そこから経済的に自立している(ただし、大学で何度か講義歴があっても、生活・業績の中心が大学外の時代にあったとすれば、「立派な在野研究者」の一人」)
- ②執筆文章に論文的形式性があるものを在野研究とする(論理的思考、先行研究、引用作法、註、参考文献など、既存論文にある形式性がある程度認められるもので、小説や詩などの創作物や政治的文書は除外する。ただし、時代や分野によっても論文的形式は変わるものなので、厳格には適用しない、とのこと。)
- ③故人を取り扱う(本書では、「ある伝記的事実がその知的生活にどんな意味をもっていたのかを中心に考えて」みるため、一度終了して「全体像が確定した生」を対象とした)
(*以上、本書p.6~7の引用&内容を整理)
2-3.著者が「在野研究者」にこめる可能性
なお、著者の荒木氏は、在野研究について、これまでのアカデミズムに対するカウンターとして考えているのではなく、研究という営為のための選択肢として存在していると、その可能性を考えているようです。具体的な未来を描くため、過去の16人の先達から学ぶべきことを道しるべとし、荒木氏はこれ「在野研究の心得」として、「所々で抽出して」みたようです。
2-4.16人の在野研究者の内訳
本書の目次をもとに、選抜された16人およびその学問分野を列挙してみます。
- 三浦つとむ(哲学・言語学)
- 谷川健一 (民俗学)
- 相沢忠洋 (考古学)
- 野村隈畔 (哲学)
- 原田大六 (考古学)
- 高群逸枝 (女性史学)
- 吉野裕子 (民俗学)
- 大槻憲二 (精神分析)
- 森銑三 (書誌学・人物研究)
- 平岩米吉 (動物学)
- 赤松啓介 (民俗学)
- 小阪修平 (哲学)
- 三沢勝衛 (地理学)
- 小室直樹 (社会科学)
- 南方熊楠 (民俗学・博物学・粘菌研究)
- 橋本梧郎 (植物学)
16人中で頭に来ている学問分野を挙げると、文系分野で哲学が3人、民俗学が4人、考古学が2人、女性史学・書誌学・地理学・社会科学が1人ずつ、二つ目に来ている学問分野で文系を挙げると、言語学・人物研究が1人ずつ。理系分野は、粘菌研究・植物学が1人ずつ。文理総合もしくは境界分野が精神分析・動物学。
全体的に、荒木氏が取り上げたのは、文系分野の実践者が多いなという印象を抱きました。それから、大学ではなくとも、中等教育機関尾の中高、学外の学びの場で職を得ていた人物もけっこういたようで、やはり、在野研究者と言えど教育機関とはどこかで接点を持っていることが分かりました。
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さて、著者の紹介、本書の前提である「在野研究」&「在野研究者」の基準の解説、在野研究者16人の内訳を見てみたところで、この前編は終わりです。続く後編では、章のキーワードをもとに、私が今の「ノラ博士」をしている中で、特に重要だと考えたものをピックアップし、その心得に関係した先達を取り上げ、レビューをしていきたいと思います。
(大学の在野で研究する者たちへの指南書~荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』:前編~ 終わり。後編へ続く↓)
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