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仲見満月の研究室

元人文学系、現・文理総合学系の「真っ白」博士が大学院とその周辺問題を考える

大学の在野で研究する者たちへの指南書  ~荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』:後編~

↓の前編の続きになります。

naka3-3dsuki.hatenablog.com

著者・荒木優太氏の章のキーワードをピックアップしつつ、この本の中の在野研究者の生を、具体的に見ていきたいと思います。 更に、「在野研究者の心得」を著者自ら実践している例もあるようなので、こちらも覗いてみたいと思います。

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

 

 

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 <本記事の内容>

3.研究の費用と生活の糧という経済的な問題と在野研究者

  本書の「第1章 働きながら学問する」、「第2章 寄生しながら学問する」の2章分に当たります。ほぼ自活して学問をしていたのは、第1章の三浦つとむ(哲学・言語学)、谷川健一民俗学)、相沢忠洋(考古学)の3人。家族の経済力に依存する形で学問をしていたのは、第2章の野村隈畔(哲学)、原田大六(考古学)。あと「第3章 女性と研究」に出てくる吉野裕子は、民俗学、アラサーで今の津田塾大学の学部卒業後に英語教師を母校でしていたものの、夫の経済状態がよくなってから仕事を辞めて後、日本舞踊の趣味が転じて研究を始めたころには無職で夫の経済力に頼っていたので、私は寄生しながら学問をしていたほうに含めたいと思います。

 

 3-1.マルチな平凡社社員出身の谷川健一の場合

 さて、第1章の自活型で私が最も注目するのは、谷川健一氏。谷川氏は独学といいつつ、東京帝国大学文学部に入学し、雑誌の編集長、小説家と並行して民俗学の研究を行い、著者によると最終的には「近畿大学文芸学部の教授」に就任している。そのため、

このように谷川は、在野で考えられるであろううち最高のエリート街道をまっしぐらに歩んでいるように見える。お前、恵まれすぎだろ的なツッコミを入れたくなるのも仕方ない。

(本書p.34)

恵まれすぎだろ、というのは、私も感じました。ここで少々、脱線しますが、前編から筆者・荒木氏独特のツッコミに対し、著者が東京生まれで江戸っ子気質の人々に囲まれて育った影響なのか、それとも著者自身が個性的な成長を遂げてきた結果なのか、いろいろ邪推してしまいます。とにかく、こうした在野研究者の人生に対する細かいツッコミは、読者の気持ちを時として代弁することもあり、そこも愉快で読んでいて、楽しかったです。

 

話を谷川氏に戻しましょう。谷川氏は晩年に『独学のすすめ』という、先達の在野精神を人々に紹介する著作において、司馬遼太郎の高校時代のエピソードを引っぱってきて、谷川氏がその「独学者」としての道を歩んだことを体現していると、荒木氏は彼の人生を語り始める。

ちなみに、この司馬遼太郎の逸話とは、司馬遼太郎が英語の授業中、「先生にNew Yorkという地名の意味を聞いたが、それを知らない教師は怒鳴り、「お前なんかは卒業するまで保(も)たんぞ」」と嫌味を言われたことに端を発する、司馬遼太郎の学校嫌いと図書館での独学癖の始まりの話です。もっといえば、司馬遼太郎はこの体験により、懐疑的になり、在野精神を持つようになったと言われ、谷川氏が「独創の精神が不可欠です」と『独学のすすめ』で主張することの根拠のように扱われているようです。

 

司馬遼太郎と似たような経験を高校生の時した私*1としては、「司馬さんみたいに、こっそり図書館で勉強したほうがいいでしょうね」と納得した部分でした。

 

 そんな谷川健一氏は、中学時代から文学青年で、東京帝国大学文学部に入学後、祖母から受け継いだ結核で入院し、戦地に行くことなく、療養所のラジオで終戦を聞いたのです。戦後、結核から回復した彼は大学に復学し、バイトをしつつ、卒業。1952年に、有名な詩人であった弟・谷川雁の伝手で、社会学者の日高六郎に繋いでもらい、平凡社に入社することになる。ちなみに、著者は「縁故入社ハンパない。そんなアラサーで初就職した谷川の最初の仕事は、『児童百科事典』を作るために集まった原稿のリライトだったそうだ。」(p.36)とツッコミつつ、谷川氏が民俗学者と縁の深い出版社の一つである平凡社への入社を語る。

 

平凡社といえば、私が以前「平凡社東洋文庫のオンデマンド 」で紹介したように、

日本をはじめ、朝鮮半島、中国大陸からインドまで、ジャンルは古典文学書から旅行記まで、アジア古今東西の幅広い著作物を扱う

(平凡社東洋文庫のオンデマンドより引用)

という叢書を抱えた、人文・社会学の学術書を多数出しているお堅いところ。この学術出版社で、谷川氏は柳田国男の『桃太郎の誕生』という「全国各地の桃太郎伝説話を収集して子細に分析した」(本書p.36)という書物より、「庶民」の知を中心にした民俗学への興味を持つようになったそうです。その関心は会社での仕事にも影響したようで、

 ・大藤時彦宮本常一とで編集委員を務めた『風土記日本』

 ・リラダンの『残酷物語』を模した『日本残酷物語』の民俗叢書シリーズ

でした。いずれもベストセラーとなったが、著者曰く、

 出版社の仕事というのは、扱う分野にもよろうが、研究や学問の営為としばしば隣接している。谷川はそれをうまく利用して会社での仕事=民俗学研究に活かした。在野研究者の心得その3、就職先はなるべく研究のテーマと近い分野を探すべし。

(本書p.37)

とのこと。これは、私も著者の言う通りだと思いました。単に研究の資金と生活の糧を得るために、全く自分の興味・関心とも関係のない職業に就くよりは、たとえアルバイトでも、仕事内容が研究を深める勉強に繋がる職種を選ぶと、一石二鳥以上のお得なことがあります。そういうわけで、在野研究者の心得三は重要です。

(ちなみに、著者の荒木氏は清掃のパートタイム労働をしているそうで、ご本人がイベントで仰ったところでは、「人とのコミュニケーションが時に億劫なところがあるので、清掃の仕事は割と性に合っているんです」とのことでした。それも思索の時間に充てられるようで、よし!と思いました)

 

これは何も四年制大学の4年次の学生で文系大学院に行こうか、悩んでいる学生だけではなく、経済的に困窮した院生にも、研究を続けるため、おすすめの進路です。たぶん、学部ゼミや院ゼミ、講読授業で使う教科書を何冊か見ていると、自分の専攻分野に強い学術出版社が数社、分かってくると思います。出版不況で出版社の求人は少ないものが昨今の状況ですが、地理的に通うことが可能なら、アルバイトや契約社員の募集をしているところがあるので、根気よく、学術出版社のサイトの求人をチェックしてみてください。ついでに言うと、会社によっては専門性の高い院生をこっそり、探しているところもあり、その話を(原稿を取りに来た)担当編集者から聞いた大学教員が修士号・博士号を取ったばかりの弟子を縁故採用によって「ねじ込もうとする」ことさえ、あるらしいです。

 

それからもう一つ、上の『風土記日本』で谷川氏と一緒に編集委員を勤めた宮本常一も、経済的な困窮を青年時代まで抱えつつ、師範学校に通い、卒業後は学校教員をしつつ、初期は在野を中心に活動した民俗学者の大家の一人です。宮本常一は一時、結核で故郷の山口県数大島で療養中に投稿した研究論文で、当時、日本の民俗学のボスだった柳田国男の目にとまったり、回復後に学校教員をしていたところ、生涯の師匠かつバックアップ者の渋沢敬三と出会い、以降は日本各地でフィールド調査を実施。『風土記日本』刊行後、1960年に『忘れられた日本人』を刊行し一躍脚光を浴び、その翌年に東洋大学から文学博士号を授与され、それ以降の宮本常一の研究の場は、大学中心にシフトしていきました。なので、厳密には宮本常一は在野研究者ではないのですが、平凡社との繋がりで、書き添えました。

もう一人、初期の短期間に在野に近い形で研究していた人物で、平凡社から著書を出している東洋学の研究者に、白川静がいますが、ここでは割愛いたします。

 

再度、谷川健一氏の話に戻りましょう。平凡社社長から仕事を評価された谷川氏は、新雑誌『太陽』の編集長を任されるものの、自分の体調が心配だったらしく、一年限定で辞めてから、有給休暇のような状態で閑職に就き、民俗学的な関心のうかがえる『最後の攘夷党』という小説を書き上げました。そこで、自分の会社に出入りしていた詩人・秋山清に相談し、秋山清の紹介で三一書房からこの小説を出版。直木賞受賞の候補になったり、大仏次郎から激励の手紙をもらったり、何とも狭い範囲にマルチな才能を持った人かと私は関心しました。それでも、決意して民俗学に進んだ谷川氏は、平凡社退社後、三一書房で編集の手伝いをして資金を得つつ、その傍らの旅行で得たもので様々な雑誌に寄稿することで、仕事を続行。その後、沖縄への関心を持ち、調査を行い、著書を発表していく中で、調査対象も変化していったようです。

 

地方を研究対象としていたことのある谷川健一は、日本全国の情報が集まってくる国立国会図書館を頻繁に利用していました。著者によると、

東京とは「情報センター」でもあり、国会図書館を一例として、全国の情報がそこに集まってくる。その「センター」を利用できるかどうかはよき研究成果のためのひとつの鍵だ。
 資料の入手の困難に、地方研究者の悩みがある。 
 在野研究の心得その4、資料へのアクセス経路を自分用に確保しておく。すべての研究者が研究に便利な場所に移ることは様々な制約によってできないだろうが、アクセシビリティを意識しながら自分の生活を設計することは不可能ではない。たとえば、ホッファーは「市立図書館の近くに安アパートを見つけ」るような工夫で、知とのアクセスをタダで維持しようと努めた。似たような工夫を凝らすことは検討していい。

(本書p.41より引用)

ということ。ちなみに、著者の荒木優太氏は現在も東京都在住のようで、国立国会図書館が近くて、便利だそうです。

(*大学図書館の利用については、拙ブログで以前、次の記事を書きました:

本を読むのに必要な「お札」 大学図書館の利用者カード

 

こうして、谷川健一氏は学究を息長く続けてきますが、本書の後ろに出てくる別の在野研究者に対し、編集者として登場してくるという、何とも言えない、ユニークな人として、著者に扱われています。

 

 3-2.サボタージュ主義者だけど成果は残したダメンズ・野村隈畔

さて、第2章の家族の経済力に依存する形で学問をしていた在野研究者の一人目が、野村隈畔です。福島県の農家出身の隈畔は、小学校を出た後の学歴が一切ない人物で、金銭的にも、人間関係的にも、「学的資本」と呼べるものはなーんにもなかったようで、著者が「ナイナイ尽くしのなかで、どのようにして勉強をつづけることができたのか。」(本書p.62)と言っているほど。一応、卒業後は父母の農業の手伝いをしつつ、上級の中学校などに行った同窓生に劣等感を抱き、自主的に勉強はしていた模様です。隈畔の著書によると、自宅でもサボタージュを決め込んでいたことが分かり、「結婚後、労働全般を妻に押し付け、労働する者を悪人視する自身の哲学は曲げなかった。」(本書p.64)そうです。

 

福島県の田舎で実家の農業を手伝っていた隈畔は時折さぼりながら、哲学の中でも

倫理学に興味を持つようになります。父母の不仲がきっかけだったようですが、とにかく、本は読み続けた。その中で、宗教学者の岸本能武太と彼の著作通じて出会った隈畔は、岸本に私信を出して、あれこれ、質問するようになりました。こうして、「 在野研究の心得その8、自分の指針となるオリジナル師匠を持て。」(本書p.66)を体現する隈畔は、25歳で結婚後、新妻の次子を田舎に置いたまま、東京へ出ていくことになったのです。これは、ヒドイ。

 

上京後の隈畔は、学歴コンプレックスを抱えたまま、一度、試しに東洋大学に一ヶ月だけ哲学の講義を聴講してみたものの、空疎と感じたよう。学資がつきかけそうなころ、妻が東京へやって来ました。「隈畔の方は根っからの労働嫌いのため、不甲斐ないとは思うものの、決して働かない。」(本書p.68)のため、妻が女中や女工として必死に働くも、経済的に苦境すると、妻が一時、田舎に戻ったらしい。この奥さん、よく無職の夫と離縁しなかったと、私は疑問が絶えません。ちなみに、隈畔に仕事がなかったのには、仕事を持ってきてくれる知り合いや友人もいなかった、「ナイナイ尽くし」の状態だったこともあります。

 

再び脱線しますが、本書と同時期に読んでいた栗原康氏の『はたらかないで、でたらふく食べたい』の中で栗原氏が結婚のため、婚約者とのやり取りを思い出します栗原氏は、

 ・主夫をします!
 ・アルバイトを増やします!
 ・頑張って博士論文を書いて(から専任講師を目指して)就職活動します!
と、世間的には真っ当な働く日本人男性になろうと努力したところは、経緯はどうあれ、たとえ一瞬もとしても、愛する人のために偉い!と思いました。そもそも、栗原康氏は執筆活動が労働の人で、面白いことは書いているので、筆を使って働いてはいるんですよね。講演活動や非常勤講師もしていますし。

(*栗原氏の結婚に関する詳細は、次の2つの記事を参照のこと:

文系オーバードクターの結婚について~栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』:前編〜 

文系オーバードクターの結婚について~栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』:後編〜 -

 

畔に話を戻しましょう。彼の労働嫌いには、書きものの仕事にも当てはまっていたようです。同人の仲間との定期的な締め切りや編集作業さえ、嫌だと言ってしまえるとは…。彼がモトモト農民だったことを差し引いても、なダメンズっぷりに、私まで呆れてしまった。「繰り返しになるが隈畔は徹底的な労働嫌いであり、知的労働に等しい書き物仕事にもそれは当てはまるからだ。」(本書p.69)と、本書の著者もはっきり、指摘している。これなら、研究で本を数冊を出している栗原康氏のほうが、まだ真っ当な知的な知的労働をしていると、私は思いました。同じ境遇なのに、程度の差による野村隈畔のダメっぷりは、とうとう、せんべい屋のところで、筆者にツッコミを入れられてしまっています。「・・・・・・こいつ、ダメすぎるっ!」(本書p.72)と。

 

それでも、隈畔は文句を口にしながらも、何の伝手を頼ったのか、処女作『ベルグゾンと現代思潮』を刊行。その後も彼は、「コンスタントに著作を出しつづけていた。著作は10を超える。」と著者は述べ、彼から私が一番学べることは、「在野研究の心得その10、成果はきちんと形に残せ。」(以上、本書p.75)ということです。それは、隈畔の評伝後に出てくる参考文献一覧を読むことで、非常に納得しました。著作を成果として残すことにより、著者は後世、研究対象にされるので、研究者として後学に影響を与えられるのです。「彼の仕事は、検索され、画面表示される」(本書p.76)ので、怠惰に拘った隈畔の著作さえも、我々は読むことが出来るのです。そういう意味での「成果をきちんと形に残せ」は、私の心にも響きました。

 

隈畔の最期を聞くと、とことん、ダメンズすぎて「お前は太宰治よりも、下のダメっぷりな生き方じゃないか!」と後生の私がツッコんでしまうものでした。1921年、東京音楽学校での哲学講習会の講師をした彼は、岡村梅子と出会い、11月に2人は情死。献身的な妻をあとに残し、隈畔は38歳の若さで世を去りました。なお、細君のその後について、著者は記していません。

 

ところで、著者・荒木氏は成果を残すことに関して、具体的に行ったことは、前編の著者紹介で後述するとした、『小林多喜二と埴谷雄高』ブイツーソリューション、2013年)が、本書の前にあります。次の記事【2016.12.2追記】Why academic books are very expensive ?~研究成果としての学術書の出版とその問題~の「4.読者にも出版側にも快適な学術書のあり方とは?」 で紹介しましたように、『小林多喜二埴谷雄高』は、荒木氏の自費出版による文庫サイズのコンパクトな、学術書です。150部ほど作られ、Amazonでも流通していたそうで(現在は在庫ゼロの状態)、日本全国の大学図書館における所蔵状況が検索できるCiNii booksにおいても、検索すると出てきます。詳しくは、上記の「4.読者にも出版側にも快適な学術書のあり方とは?」 に譲るとして、とにかく、本書の著者も最初の研究成果として、出版物を出しています。

 

 3-3.「妻食主義」だった原田大六

第2章で、私が究極の寄生タイプ、かつ理解のある伴侶にめぐり会えた在野研究者として、挙げたいのが原田大六です。

 

戦前・戦中を通じて、ゲージラッピングの作業員をしたり、徴兵で中国東北部に行ったり、戦後は復員して一時、地元・福岡県の前原町に戻り、中学校の教員をしたり、働いていました。その中で、近くの自治体の元医者で考古学をしていた中山平次郎と出会い、考古学に入っていくことになります。

 

考古学と出会った原田は、家族や親族に、自分は一切、仕事をしないと宣言して、働かなくなってしまった。親族は親族で、敗戦のショックで原田の頭がおかしくなったと認識していたらしいです。ここで、著者より、アドバイスです。

在野研究の心得その11、周囲に頭がおかしいと思わせる。在野で研究などやろうとする人間は周囲の人々から、おおかた変わり者だと思われることになる。ときに、それが不快だと感じることもあるかもしれないが、しかしそのぶん、コミュニケーションに巻き込まれるコストを支払わずにすむ。下手な期待でお節介されるよりも、「へんちくりん」として関係性を切るように誘導するのもひとつの手だ。

(本書p.81)

面倒な言いがかりを避けるため、頭が狂っていると周囲に思わせることで、無駄な意思疎通の時間を減らし、その分のエネルギーを研究に費やせるということを、著者は言いたいのだと思います。

 

さらに、原田の考古学への情熱と行動は、戦後の歴史学世界の事情と複雑に絡まり、専門家の研究者たちをも巻き込んで、大変なことになっていきます。その大変さの一端は、著者が語るように、当時の時代背景もあったようです。

原田の仕事を乱暴に要約すると、日本書紀古事記に描かれた数々の神話は妄想の産物ではなく、現実に起こった史実の神話的翻訳である、ということだ。それを考古学的に発見した様々なモノを頼りに実証していく。(中略)
 いうなれば、考古学と文献史学のドッキングである。コト=事象(文献史学)とモノ=物象(考古学)の両輪で歴史を捉えていく態度、それが原田考古学の真髄である。
 『実在した神話』で第一に批判されている歴史学者の津田左右吉を筆頭に、戦後登場した歴史学は戦前の皇国史観を反省するためか、神話的言説を批判的に取り扱った。つまり簡単にいうと、古事記などオトギバナシに過ぎないという批判だ。和島が原田の言説を圧殺しようとしたのも、戦前的な皇国史観に実証性を与えるような研究であったからだ、と原田は振り返っている。危険視された、というわけだ。

(本書p.85~86)

長く、引用してしまいましたが、大丈夫ですかね、著者さん。実は、上記引用部分の後半の皇国史観について、私は学部の歴史学の学術史の授業で習いました。戦後、日本の歴史学の世界では、日本の「神話」と歴史的事実を混同し、それが政治と結びついていったという戦前の歴史の扱い方の危険性を反省するところがあった、と強引にまとめることができます。ちょうど、あの「皇国史観」を反省する時期であれば、原田の考え方は鋭く批判されても仕方がなかったんじゃないかと、察せられます。出土品から歴史を読み解くのではなく、過去の人々の生活や物の見方を推測する民俗学的な分析であれば、また違ったんではないのかと。

 

ただし、原田をモデルに小説を書こうとしていた松本清張が述べるに、「大六さんは発掘や考古学の領域では偉い業績があり」とのことでした。そういうわけで、発掘とその関連の領域では、一定の業績は認められていたようです。

 

更に、原田大六は、思い切った行動に出始めます。奈良の高松塚古墳の出土品が、東京に持ち去られていた、というような考古学者たちの「都市部中心主義」を警戒していた彼は、1965年の平原遺跡で出た割竹型木棺や鏡・剣・玉のセットなどを、おそらくは持ち去り、「原田は自宅に自腹で復元室をこしらえた。(中略)返却の条件は出土した前原町にしかるべき施設をつくり、展示することだった。」(本書p.87)という行動を起こした。都市部の博物館や大学に収蔵されない危険を察知してのことだったが、当然、遺物を私物化しているという批判にさらされました。

この原田の行動、理解できます。ある地方で出た古墳の大鏡は日本最大級のものだったと伝えられ、調査と保存を理由に、東京国立博物館に持ち去られたそうです。その地方の友人によれば、古墳の史料館、それから自治体の役所にある2枚の大鏡はレプリカで、今でも出土した本物は東京国立博物館に所蔵されている、と。地元では管理できる環境にないからと、友人は悔しそうでした。

 

 

こんな感じで非常に変わり者とされた原田大六でしたが、そんな彼にも理解してくれる伴侶が現れます。考古学者の宣言後、一時期、学校教員をしていた姉の家に原田は居候をしていました。39歳の時、同姓だった小学校教員の原田イトノと結婚します。小学校教員だったイトノは、彼の理解者でした。イトノが結婚相手に求めた基準は、嘘を吐かず、自分より頭のよい人だそう。これも一種の「変わり者好き」だったのかもしれません。当時、お見合いや知人の紹介による結婚がまだまだ主流だった時代背景もあって、無職でも自活できていたイトノには、原田は問題なかったのかもしれません。

(同じく婚約者が小学校教員だった、先述の栗原康氏には、「婚約者が時代と個人的な理解が得られない人だったのも、しょうがなかったんだ」と心の中でつぶやきました)

 

彼の死後、イトノが語ったところでは、原田は妻を食べて生きていた「妻食主義」だったそうです。実際、原田は小学校教員の妻の稼ぎを便りにして、研究生活を続けていたようです。そして、自分は「大六夫人」と呼ばれていたけれど、実際は「第六夫人」であり、夫の第一夫人は考古学だった、とも妻のイトノは付け加えています。

 

そうは言っても、彼女は原田の死後、自分の退職金で報告書『平原弥生古墳』を自費出版しているそうで、著者がしてきするようにイトノは「原田の最大の理解者だったように」思われます。この報告書が出てから、原田の見つけた平原遺跡の鏡ほか国宝認定されたと言われています。この妻のイトノさん、原田の考古学に取り組むのを後ろから眺めては、ニヤニヤ微笑んでいたのかもしれません。ということは、彼女自身も、実は相当の変わり者だった可能性があります。

そういうわけで、著者より「在野研究者の心得その12、研究の手助けをしてくれる配偶者を探そう。」(本書p.89)。私から言うと、手助けはしてくれなくてもいいので、研究に対して、学問ことはよくわからないけれど、研究の話をする様子をプラスの方向に面白いと感じてくれる人は、生涯のパートナとして、最適ではないかと考えています。

(*なお、このパートナーの条件は、院卒者についても同じで重要です。詳細は、次の拙記事を参考のこと:

大学院生や研究生・研修生の出てくる漫画_理系編その3(理工学編)~高世えり子『理系クン』:前編~ - 仲見満月の研究室

大学院生や研究生・研修生の出てくる漫画_理系編その3(理工学編)~高世えり子『理系クン』:後編~ - 仲見満月の研究室

『理系男子の"恋愛"トリセツ』で考えるドラマ「逃げ恥」津崎平匡のこと~『逃げるは恥だが役に立つ』中の院卒者の生き方③~ 「4津崎平匡タイプの理系男子と恋愛結婚する時のポイント」)

 

配偶者ではありませんが、著者は両親や兄弟など家族の理解を得ることも、大切だと先述のイベントで仰っておられました。特に、原田も姉の家に居候していたように、実家に住んでいる著者は、切実にこういわれました。実家や兄弟姉妹の家にお世話になっていれば、なるたけ、家族との対立は避け、仕事で収入があれば、時折、プレゼントをして感謝の意を伝えるのも、良好な関係維持のため、するといいというアドバイスです。

 

 

4.全体のまとめ

 以上、谷川健一民俗学)、野村隈畔(哲学)、原田大六(考古学)の3人を本記事では取り上げ、著者も「はじめに」で指摘するように、在野研究者にとって最大のネックになると考えられる、研究の費用と生活の糧という経済的な問題に関して、自活と寄生の2タイプの在野研究者を見てきました。この3人の生き方から得られた「在野研究者の心得」は、

  • 在野研究者の心得その3、就職先はなるべく研究のテーマと近い分野を探すべし。 
  • 在野研究の心得その4、資料へのアクセス経路を自分用に確保しておく。
  • 在野研究の心得その8、自分の指針となるオリジナル師匠を持て。
  • 在野研究の心得その10、成果はきちんと形に残せ。
  • 在野研究の心得その11、周囲に頭がおかしいと思わせる。
  • 在野研究者の心得その12、研究の手助けをしてくれる配偶者を探そう。

の、以上6条でした。心得その8は検証していませんが、その他の心得については著者自ら、一部で形を変えつつも、実践されているようです。本当は、プラスで吉野裕子のことを詳しく取り上げたかったのですが、ちょっと女性研究者という視点から考えている企画があるので、また別記事で紹介できたら挑戦したいと考えています。

 

 

本記事で取り上げた以外にも、16人の在野研究者は、一人一人個性が豊かで魅力的でした。私の今の筆の力では全員を紹介しきれません。そのため、

中でも気になっている人物で、著者が、在野研究者のスーパースターとも言っている南方熊楠について、より理解を深められる文献をリンクしときます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↓青春時代の南方熊楠の型破りさが際立つ漫画です。

クマグスのミナカテラ (新潮文庫)

クマグスのミナカテラ (新潮文庫)

 

 

 ↓たしか、南方熊楠も含まれていたと思います。コンパクトで読みやすいです

近代社会と格闘した思想家たち (岩波ジュニア新書)

近代社会と格闘した思想家たち (岩波ジュニア新書)

 

 

本書は在野研究者の生き方を考えるのが目的でしたが、大学・大学院を中心にしたアカデミアの中で生き残る指南書として、以前にレビューした岡崎匡史氏の『文系大学院生サバイバル』と併読すると、研究者志望の方には、選択肢が広がるかもしれません。レビュー記事2本をリンクしときます。

naka3-3dsuki.hatenablog.com

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最後に、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。本ブログの読者の方に、少しでもお役に立てたら、幸いです。あと、気が向かれた方は、下のリンクより、物資を恵んで頂けると、ブログ管理人の生命維持に繋がります。

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<参考>

著者の荒木優太氏について、調べていたところ、何とWikipediaと国の研究者データベースであるリサーチマップに、ページを見つけました。後者に載るのは、在野研究者としては意味のあることだと思いました。応援の意味も込めて、リンク貼っときます。

荒木優太 - Wikipedia

荒木 優太 - 研究者 - researchmap

*1:個人的な話で恐縮ですが、似たような経験を私は高校の書道の隷書の臨書内容に対して質問して、「そんなことより、真面目に臨書せぇ!」と、元々、美術の教員免許をも所持していた教員に怒られました。あれはね、「武王」と入っていたから、たぶん殷周の王朝交代の話の姫発=武王だったと、自分で後に気がつきました。が、更にその後、先秦史の授業をとっていて、武王というのは殷王朝のほうにもいたらしい、と習ったことがありました。中国史、難しいよ、司馬遼太郎さん。

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