仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

【2017.7.16_1409追記】現代中国の人々が死を悼む「かたち」と海洋葬から考えたこと~劉暁波氏の逝去に寄せて~

<本記事の内容>

1.はじめに~ある人権活動家のこと~

「中国の民主化運動の象徴的存在で、服役中にノーベル平和賞を受賞した人権活動家」が「7月13日、入院先の遼寧省瀋陽の病院で死去」されました。この方は、劉暁波氏です。

 

www.huffingtonpost.jp

 

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もう、ずいぶん前からだったように記憶しています。日本のニュースでも、北京オリンピック後の「08憲章劉暁波氏が発表。上のハフィントンポストでも書かれたように、

中国共産党一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。多くの署名が集まったが、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受けた。

2010年、劉氏は「中国での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきた」という理由でノーベル平和賞を授賞。だが当時は獄中にあったため、授賞式には出席できなかった。

劉暁波氏が死去 中国民主化運動の象徴、ノーベル平和賞の人権活動家 その足跡を振り返る


ということが伝えられました。この時、ノルウェー内政干渉をしているとして、中国が批判。両国の関係が悪化する事態となりました。

中国での民主化の動きと言えば、1989年6月の北京の天安門広場で学生たちによる運動が、私には思い浮かびます。同年同月4日、人民解放軍による武力により、学生たちは鎮圧されました。

後に「(六四)天安門事件」と呼ばれることになったこの出来事は、何らかの形で関わった人たちに、影響を与えました。民主化運動に、直接的に関わった人々には、犠牲者となった人々がいました。生き残った人たちの中には、欧米にわたって学び、そこで文芸や映像等の作品をうみ出し、活躍する場を得る人たちもいました*1

 


事件から10年ほどたった頃、私はよく某衛星放送の国際ニュース番組を見ていました。ある年の梅雨、この天安門事件について番組スタッフが取材をしますが、当時の関係者は中国国内の誰もが口を重くし、語ることを避けようとしていたのが印象的でした。

その頃の私は、ハフィントンポストにある劉暁波氏の動きを知りませんでした。彼は民主化運動の中、学生側を説得して武器を手放すようにし、「友人の周舵・侯徳健・高新とともに」軍と交渉して、残った学生の身に危険が及ばないように行動していたこと、後に友人たちと「四君子」と呼ばれるようになったこと、この2つの行動です。


今月13日の劉暁波氏の逝去が伝えられた時点で、私は「彼は不屈の人権運動家だった」と認識していました。しかし、先のニュース記事を読み、彼に対する印象が更に大きく変化します。

劉暁波氏は1955年12月、吉林省長春の出身。10代の頃は文化大革命の影響を受けて、家族とともに辺境の農村で過ごした。

1982年に吉林大学文学部を卒業後、北京師範大学で文学修士号と文学博士号を取得。その後、ノルウェーやアメリカなどの大学から客員研究員として迎えられた

劉氏は1988年7~9月ごろの約3カ月間、ノルウェーオスロに滞在。オスロ大学の現代中国文学や芸術の講座に招かれ、10回ほど講義をしたという。当時、劉氏の世話をした亡命中国人作家の陳邁平(チェンマイピン)氏は朝日新聞(2010年12月6日朝刊)の取材に対し、劉氏が「文学は共産党の独裁に対抗するための道具でなければいけない」と語ったと証言している。

コロンビア大学の客員研究員だった1989年、北京・天安門広場で学生らの民主化運動が起こると、劉氏も帰国し運動に参加。ハンガーストライキを指揮した。

劉暁波氏が死去 中国民主化運動の象徴、ノーベル平和賞の人権活動家 その足跡を振り返る


中国東北地方の出身で、北京の大学で文学の博士学位を取得後、劉暁波氏は、アメリカやノルウェーに招かれた文学研究者として、活動。ある時は中国文学や芸術の講座に携わり、事件の直前まで、コロンビア大学に客員研究員として論文を書いていたのでしょう*2

時間の歯車の噛み合わせが違っていれば、劉暁波氏は世界的に優れた文学者として、現在、名を知られるようになっていたかもしれません。歴史に「もし、異なる未来があったなら」、という妄想はナンセンスと言われます。人権活動家としての姿を知れば知るほど、やはり、劉暁波が非凡な研究者をお持ちだったという可能性を考えずにはおれません。批判を恐れず申し上げれば、私は彼の中国文学に関する論文を読んでみかったとも思います。

 

1989年の天安門事件以降、人権活動家として生きた彼は、奥様の劉霞氏と共に歩まれ、獄中生活を送りながらも、「私に敵はいない」という言葉で、精神的な強さを示されました。肝臓がんが発覚した後、望んだアメリカやドイツの医師による医療は受けられず*3、死期が近づくなか、

入院先だった病院が同日深夜、記者会見を開き、劉氏が妻の劉霞(リウシア)氏(56)に最後に伝えたのは「あなたはしっかり生きなさい」

「劉氏をすぐ火葬し遺灰を海に」当局が要求、遺族は拒否:朝日新聞デジタル

という言葉でした。


この場をお借りして、劉暁波氏のご冥福を心より、お祈り申し上げます。

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2.現代中国の人々が死を悼む「かたち」と政治

 2-1.共産党政府が墓を造らせなかった理由

劉暁波氏が13日に亡くなると、彼の遺体をめぐって、「当局側は遺族に対し、劉氏の遺体をすぐに火葬し遺灰を海にまくよう求めていた」ことが、朝日新聞がによる4日の報道で分かっています:

「劉氏をすぐ火葬し遺灰を海に」当局が要求、遺族は拒否:朝日新聞デジタル


①の記事によれば、「劉氏の墓ができ、追悼する人々が集まることを警戒」する。もっと言えば、「当局は国内に劉氏の墓ができ、政府に批判的な人々が集まるのを警戒している」そうです。

 


政治的に影響力のあった劉暁波氏に対するの慰霊の動きが、次の政治的な動きへと繋がることに対し、共産党政府が警戒していたようです。実は、歴史上、その前例がありました。
 

 2-2.周恩来の死と「四五天安門事件」の前例


現代史では、先の1989年6月4日の「六四天安門事件の7年前、場所は同じ天安門広場。1976年4月5日に、同年1月に逝去した周恩来の慰霊をめぐって起きた「四五天安門事件」です。四五天安門事件 - Wikipediaの概要では、

周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動

四五天安門事件 - Wikipedia


といった一連の動きををひっくるめて、「四五天安門事件」。あるいは、「第一次天安門事件」と呼ぶそうです。以下、四五天安門事件 - Wikipediaを中心に、この事件の概略をまとめました。

当時は、文化大革命に疲弊していた人民にとって、政策に距離を保っていた周恩来に人気が集まっていました。そこに、政治的混乱にあった共産党の中枢にいた毛沢東は、周恩来への不信感を強めていたそうです。とはいえ、文革で粛清や追放の続いた杜氏共産党には、便りになる人物は多くありません。

1972年、周恩来首相は、歴史的なニクソン米大統領の中国訪問を迎え、中共同宣で日本との国交を再開するなど、言脚光を浴びました。一方、 膀胱癌が発見されます。入院生活でも執務を続け、1976年1月、周恩来首相は亡くなりました。

首相の死に人民の衝撃は大きかったようですが、彼の死を契機に大学を中心に、政治的な動きが起こり、混乱が深まって行きます。南京での3月の追悼集会の流れから、1976年4月4日は清明節に当たり、この日は古きより、中国では死者を弔う日で、北京市民二万人が天安門広場に集まりました。

人々は花輪や詩を捧げるだけでなく、共産党の中心にいた所謂「四人組」を批判する演説が起こります。花輪の撤去や警告に始まり、四人組の動きで民兵や警官隊が群衆を襲撃し、鎮圧されました。犠牲者の数は分かっていません。


四人組は、この「四五天安門事件」を収拾しましたが、この年の9月に毛沢東が死去。北京市民の動きが中国全土に伝わっており、四人組は失脚することになりました。

四五天安門事件のなか、一度、失脚させられた鄧小平が復権1978年以降、経済の改革解放の政策に着手しますが、政権は共産党が握ったまま。そのあたりが、先の「六四天安門事件」の民主化の運動に繋がってきます。


ところで、亡くなった周恩来首相の遺骸については、wikipediaによると、

その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。

周恩来 - Wikipedia

とのことでした*4

周恩来の場合、火葬した遺骨を祖国全土に空から散骨したので、辱しめを受けることはありませんでした。それでも、彼を慕う人民の慰霊は、政権の中心にいた「四人組」を批判することに、結びつきました。

人民に支持される人物の影響は、死してなお強いことを共産党政府は、周恩来の死を通じて、いっそう、強めたのかもしれません。

 

 

3.中国の人々が死を悼む「かたち」と海洋葬について

  3-1.報道の伝える埋葬法は「海洋葬」

さて、先の朝日新聞①の記事によると、

家族に近い支援者によると、当局は13日夜の段階で劉氏の遺体について、家族に「すぐに火葬し、遺灰を海にまく」ことに同意するよう求めたが、家族は「遺骨と遺灰は返してほしい。私たちの権利だ」と拒否している。

(①「劉氏をすぐ火葬し遺灰を海に」当局が要求、遺族は拒否:朝日新聞デジタル

と伝えらえています。その翌日、15日の朝日新聞の別の記事によると、最終的には劉暁波氏の兄が「家族で相談し」た結果、海に散骨となったようです:

劉暁波氏の遺骨、海に 兄「家族で相談して決めた」
瀋陽=平賀拓哉2017年7月15日20時55分

 13日に死去したノーベル平和賞受賞者で中国の著名人権活動家、劉暁波(リウシアオポー)氏の告別式が15日、遼寧省瀋陽市の葬祭場で営まれ、遺体は火葬後に海に散骨された。市当局が劉氏の兄の劉暁光氏(68)とともに記者会見し、遺族の意向に沿ったものだと発表した。劉氏とともに出国することを希望していた妻の劉霞(リウシア)氏(56)は会見に姿を見せなかった。

 

 瀋陽市新聞弁公室の会見によると、告別式は同日午前6時半に始まり、劉霞氏ら親族や友人らが参列。劉霞氏は悲痛な様子で、遺灰をしっかり抱きしめたという。また、火葬後、劉霞氏らは移動して船に乗り、正午から散骨をしたという。

 

 こうしたやり方について市報道官は「死後3日以内に火葬する」という地元の慣習に基づくもので、遺族の意向にも沿ったものだと強調。海への散骨についても妻の劉霞氏ら遺族が合意したものだとした。散骨などの様子を伝える写真や動画も報道陣に公開した。骨つぼが海に下ろされる様子を見守る劉霞氏の様子が映し出されている。

 

 しかし、劉氏の遺族に近い支援者は、中国当局が死去の当日、劉氏の遺体を火葬し海に散骨することに同意するよう求めたが、遺族が反対したと語っていた。当局は遺灰が埋葬され、民主化運動のシンボル的な位置付けとなることを懸念し散骨を求めたとみられる。

 

 当局とともに会見した劉暁光氏は、「散骨は家族で相談して決めた」と述べた。劉霞氏は衰弱しているとして姿を見せなかった。(瀋陽=平賀拓哉)

(②劉暁波氏の遺骨、海に 兄「家族で相談して決めた」:朝日新聞デジタル

 

この②の記事のリンク先では、火葬された遼寧省当局の提供動画が公開されており、海に散骨するプロセスが閲覧者にも見える形となっていました。

 

動画を見ると、遺骨の入った(?)赤い袋を納め骨壺に花びらを入れて封をし、その骨壺に紐を括りつけ、ゆっくりと海中に降下させていっていました。骨壺が見えなくなると、儀式に参加していた人たちが、骨壺を沈めた水面に向け、紙の袋から花びらを取り出しては、まき、取り出してはまき、ということを繰り返し行っていました。

 

すこし、論文記事を調べてみたところ、この葬送儀礼は、「海洋葬」と呼ばれるものだそうです。劉暁波氏の海での散骨は、彼の葬儀が行われた瀋陽市と同じ遼寧省の大連市の「海洋葬」の事例取り上げた論考:于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴―日中両国比較の視点から―」 (『国際文化研究』、東北大学国際文化学会 、23巻、2017.3)の「3.3.海洋葬の式進行」、および「3.4.海上の共同祭祀」で見られうる、大連市民政局で受け付けている「海洋葬」と非常に近いプロセスと道具によって、行われたと思われます。

 

 3-2.現代中国の葬儀方法について~共産党政府の関与で変化した葬礼~

于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」の「4.1.政府の全般的な管轄・推進 」によれば、中国の葬礼は、「海洋葬のような新しい葬制だけでなく」、例えば

1750年頃から1920年までの中国においては、葬送の儀礼 行為や手順などに共通性が見られ、当時標準とされていた儀礼には死の告知、喪服の着用、遺体の 沐浴、死者への食品などの移送、位牌の準備と設置、儀礼専門職への支払い、遺体に伴う鎮魂の音 楽、遺体の密閉納棺、共同体からの棺の排除という要素が求められる(ワトソン(1994:21-28))*5という

(于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」p.183)

 伝統的な葬礼や葬儀制度にも政府は関与し続け、

「1945年、中華人民共和国建国後、共産党は伝統的な葬制は贅沢かつ複雑すぎるう えに、封建的であると判断し、葬送儀礼に関する改革が行われた」そうです。

 

「それにより、葬送儀礼は徐々に 変容し、火葬が一般化し」、

殯儀館での新式葬儀29*6である追悼会30*7が推進されるようになった。「殯儀館」とは、葬儀式場に火葬場も付設している施設であり、2013年、中国全国でその数は1,784館に 達し、政府の民政部門管轄下の共同墓地も1,506ヶ所になった(中略)。また、殯 儀館と共同墓地は、大部分が民政局の運営によるもので、個人投資による殯儀館または共同墓地も あるが、その株式の一部は民政部門の所有である(中略)。その結果、殯儀館 での追悼会と火葬が現在の一般的な葬制となった。

(于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」p.183)

 

この他、伝統的な中国の冥界観では、冥界が現世と地続きであるため、冥界でも貨幣や各種日用品が必要だと考えられ、紙製のものが葬儀で燃やされてきたが、そこにも政府は介入してきたようです。例えば、祭祀に使われてきた「冥貨」(あの世で使える貨幣)について、政府が「封建的な祭祀用品じゃないか!」と判断し、「冥貨」を燃やすという祭祀活動の廃止が呼びかけられているそうです。

 

上記の論考による説明もとにすれば、かつて、このあたりのことで論文を書いた私としては、土葬から火葬、さらに海洋葬へ、そして、先祖を適切なプロセスと決まりに従って埋葬しなければ子孫が災いを被る、といった死生観*8をも大きく変えていくことになりそうです。習慣や死生観の大きな変化は、それについていけない人たちも当然、いるようで、于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」のp.184では、伝統的な中国の葬制をめぐって、当局と人民の間で様々な問題が起こっていることが伝えらえています。

 

民間の葬礼に介入していき、時に廃止を試みる共産党政府は、徐々にではありますが、人々の死を悼む「かたち」をコントロールしようとしているのかもしれません。その目的は、葬礼の簡素化や環境問題への対策といった中国の葬礼の合理化と共に、意図する・しないに関係なく、人々の習慣や死生観といった精神に関する部分にも変化を与えているのではないでしょうか。

 

 

4.最後に

今回の劉暁波氏の逝去と葬儀に関する報道を通じて、私が考えたことは、当局による一方的な火葬と海への散骨(海洋葬)の要請について、反発していた遺族たちは、結局、当局による拘束等の危険を避けるため、要請に従わざるを得ない形になったのかもしれません。劉暁波氏が死去って何? - はてなブックマークの時系列順に整理されたニュースの見出しを読むと、

から、支援者への更なる取り締まりされ、妻の劉霞氏が再び軟禁、あるいはそれ以上の拘束等が行われているのではないかと、気がかりな報道がされています。

 

その一方で、自分が研究対象としてきた中国について、考えさせられることが、いくつかありました。その一つが、13億(無戸籍者入れると推定20億)人の多民族国家をまとめ上げ、安定した統治をしていくには、それなりに統治側はパワーを使わざるを得ないこと。そのパワーが向くのが、共産党政府からみて内政安定を「阻む」ような、動きだと考えらえます。

 

成立過程が歴代王朝の正史・明清の国家的編纂事業に似た「中国版Wikipedia」"Chinese Encyclopedia"計画(engadget日本版より) - 仲見満月の研究室の「2-2-2.明清の国家的編纂事業とChinese-Encyclopedia計画の関係」で書いたように、

現在の中国は、多民族を領域に抱えながら政治的にいろいろと四苦八苦していますが、そのベースは清代に満漢をはじめ数億の多民族を擁したことにあったと言えるでしょう。言語や習慣といった文化の異なる民族がいれば、領域内で対立があり、反乱が起こるわけで、清が安定した支配のために厳しい思想・言論統制をせざるを得なかったことは、想像に難くありません。

 (成立過程が歴代王朝の正史・明清の国家的編纂事業に似た「中国版Wikipedia」"Chinese Encyclopedia"計画(engadget日本版より) - 仲見満月の研究室)

という統治安定化の必要性があります。それは、たぶん現在の共産党政府も変わらないでしょう。

 

中国嫁日記』の著者・井上純一氏は、別著『今すぐ中国人と友達になり、恋人になり、中国で人生を変える本』 (星海社新書)で、中国では

お金を儲けるのはいいんです。でも、文化資本で影響力を持ってしまうと危険分子だとみなされてしまうんです。アナウンサーを捕まえたりもしますから。メディアやコンテンツが社会に対して一定以上の影響力を持つことは許されないんでしょうね。

今すぐ中国人と友達になり、恋人になり、中国で人生を変える本』 (星海社新書)p.159-160)

と書かれていました*9

 

コンテンツの規制は、すなわち言論・情報統制。周恩来劉暁波氏に限らず、中国で暮らす人たちは、日々、緊張しながら、綱渡りをするように生活している人たちもいるのかもしれません。そのような意味で、「愛する妻よ、君に伝えたい」劉暁波氏が残した愛と平和のメッセージに世界は震えた(全文)のとおり、「文字の獄」は、続いているのでしょう。そういった統制は、気づかないうちに、死を悼む「かたち」に含まれる人間の習慣やものの考え方まで、変えていく可能性がある。劉暁波氏の逝去に関する一連の報道で、私が邪推したのはこのことでした。

 

政治に影響する習慣や思想といった文化的なものは、時代と共に変化していきます。制度の変遷による影響で、生じた変化が特定の人たちには不快をもたらし、別の人たちには快適さをもたらす。できるだけ、多くの人が快適に過ごすために、我が国のことを考えずにはいられなくなりました。

 

劉暁波氏の生前の活動、そして逝去の報に接して、個人にはスケールが大きすぎるテーマでしょうが、とにかく、今は奥様の劉霞氏や支援者の方々のご無事を祈っております。

 

ここまで、閲覧頂き、ありがとうございました。

 

 

5.補足(2017.7.16_1409追記)

劉暁波氏について、引き続き、調べておりました。いくつか、ご著書がありましたので、挙げておきたいと思いました。

 

私が少し、中国文学を齧っていた関係で、どうしても文芸的な作品を先に並べてしまいます。目次を読んだだけで、涙が出てきそうになりました。

 

本記事の第1項でお伝えした劉暁波氏の運動家としてのご著書。彼の目から見た「六四天安門事件」、そして「08憲章」の発表は、どのようなものだったのか、知りたい。

 

*1:【目次】文学に見る在外チャイニーズと中国語圏の現代史 - 仲見満月の研究室を参照

*2:詳細は、「愛する妻よ、君に伝えたい」劉暁波氏が残した愛と平和のメッセージに世界は震えた(全文)をご参照ください

*3:朝日新聞によれば、

7月8日には米独の専門医が診察し、「2人は当病院の治療を高く評価した」と同病院は強調。劉氏が出国を希望したのは同日の診察の時が初めてで、病院側は出国に同意したとしている。翌9日の精密検査の結果、肝臓の状態が極めて悪く、米独の医師とともに「国外への移動は難しい」と判断したと釈明した。

 ただ、劉氏の支援者によると、劉氏は遅くとも5月の時点で出国の意向を示し、ドイツ政府などが交渉を進めていた。診察した米独の医師は7月9日に「適切な医療ケアがあれば、安全な移送は可能」とする声明も発表しており、病院側の説明と食い違っている。

(①「劉氏をすぐ火葬し遺灰を海に」当局が要求、遺族は拒否:朝日新聞デジタル

*4:生前の敵に墓を暴かれ、遺体を辱しめられることは、実は中国の故事にもあります。例えば、「臥薪嘗胆」の故事に出てくる、楚出身の伍子胥の復讐。一族で仕えた同国平王に父と兄を殺され、伍子胥呉の家臣となって、兵家の孫武と共に楚に出陣して連勝します。すでに死んでいた平王の墓を伍子胥暴き、遺体を300回も、鞭打ちで辱しめました。このお話は、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。ちなみに、伍子胥のこの行動から「死者に鞭打つ」という語が生まれました。また、こちらの漫画ではp.112に描かれています:

 

江河の如く 孫子物語 (中経☆コミックス)[Kindle版]

*5:ワトソン、ジェイムズ・L「中国の葬儀の構造-基本の型・儀式の手順・実施の優位」:『中国の死の儀礼

posted with ヨメレバ
ジェイムズ・L. ワトソン 平凡社 1994-11

所収

*6::「固有」の「葬送儀礼」と区別し、火葬などの殯儀改革を経て、近代化以降大きく変化してきた葬送儀礼 を「新式葬儀」(田村和彦(2014:185))と言う。:于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」p.189、田村和彦「葬儀と国家-近現代中国における人びとの葬儀」 :

*7:「追悼会は共産党の考案ではなく、既に中華民国時代に生まれている。(中略)1944年、 亡くなった長征の老兵士である張思徳の追悼会で、毛沢東が伝統的な葬儀に代わる追悼の会を支持する旨 を公式に表明し、(中略)その後、「追悼会」は共産党の革命根拠地に広がった:于晶「中国における海洋葬の実施状況とその特徴」p.189

*8:諏訪春雄「東アジアの死者の行方と葬儀」:

*9:スマホ等のインフラはマシーンだから、取り締まられないそうです

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