仲見満月の研究室

元人文系のなかみ博士が研究業界の問題を考えたり、本や映画のレビューをしたりするブログ

平成末期の「献本」や論文の電子版公刊のこと~研究関係の本や学術論文の出版にまつわる文化の話~

お題「最近気になったニュース」

<平成が終わるまでに話しておきたいこと>

1.はじめに

令和元年まで、残すところ10日を切った4月の第4週。私の周りでは、本記事タイトルのテーマについて、毎度おなじみのTwitterで話題になったり、仲見のアカウントでフォロワーさんと少しやり取りをしたりしていました。ひとつは献本のこと、もう一方は論文の投稿と電子書籍による単体で公刊する話。前者は、先週半ばに「分室」のnote.muの更新記事に細くする形で、後者についてはやり取りで気になって調べたことを中心に、今回、情報をまとめておこうと思います。

 

主に本記事では、研究関係や学術論文の出版文化にまつわる「ニュース」にお付き合い頂けると幸いです。

 

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(画像:卒業 卒業証書 教育 - Pixabayの無料写真

 

 

2.続・ 「献本」や「ご恵贈・ご恵投」の話~仲見とその周囲の研究者のことを中心に~

先週の4月23~24日あたりから、「献本」や「ご恵贈・ご恵投」にまつわる話がTwitterの一部で盛り上がりました。それを受けて、日本の近代文学をテーマとする在野研究者の荒木優太さんが「献本の倫理」というタイトルで記事を書かれました↓

magazine-k.jp

誰が「献本」まわりのことを話し、どんなやり取りがTwitter上であったのか、といった経緯は、荒木さんが「献本の倫理」の冒頭に整理されておられるので、詳しくは説明をそちらでご確認ください。 

 

「どうして、著者(や出版に携わった人)は「献本」するのか?」――

 

この問いに対して、荒木さんが「献本の倫理」において、「著書のPR」が目的だと答えられました。具体的な部分は、こちらです。

私が著者として他者に献本するさい、その人にもっとも期待しているのは本のPRであり、賞讃でも批判でも話題になること、注目が集まることを当てにしている。それは必ずしも、新聞や雑誌の書評欄に取り上げて欲しいということを意味しない。ブログでもTwitterでもなんでも、オルタナティブなメディアでつづられた正直な感想や反応というのは、それがたとえネガティブなものであれ、著者としては嬉しく感じるものだ。ある片言を通じて、まったく知らない層の読者に自分の本を認知してもらう、回り回って本を手に取ってくれることがあるかもしれない、という希望を抱く。

献本の倫理 « マガジン航[kɔː]より)

 

研究者の場合、自著を「献本」し合ってPRするのは、研究情報の交換がひとつ、考えられます。この研究者の「献本」まわりの文化については、私も自分とその周囲の研究者のことを中心に、次のnote記事としてメモ的に書きました。ここで少し、続編として補足をしたいと思います↓ 

note.me

 

note記事でも触れたように、(一般の文芸書に比較して)高額で少部数になりがちな学術書は、献本したくても、ない時は仕方ないと、私は承知しております。嫌な言い方をすると、献本についても「ない袖が振れないこと」は、本を出される研究者や版元にはある話。ある方は、知り合いの研究者に「献本したくても、できなくて申し訳ない」と言われたと聞いたことがあります。そういった時は、研究室に献本し、共有される本もあるでしょう(私の身近ではありました)。 

 

「献本」まわりの文化で問題になったことが、もうひとつ。「献本」された報告をして、例えば、「報告した人の(SNSのフォロワーや)周りの人たちがどう受け取るか?」という問題が挙がっていました。仲見は個人的に「他者のやっかみを買う可能性があるなら、献本をされた人は報告を無理にしなければよいだけでは?」という考えです。しつこく繰り返しますが、献本したくても何らかの理由で難しい人はいるわけで、(あまり)私自身は気にしません。

 

さて、ここからは少し余談です。

 

弊ブログでもレビュー記事をアップしていますが、よく知ってる方や好きな著者の本を買い、感想を呟く機会は、SNSが身近になった時代において少なくないでしょう*1。気になるのは、「そうした感想って、実際のところ、ご著書のPRになっているのだろうか?」という点。弊ブログでは、記事を通じたAmazonアソシエイトによる本の売り上げをもとに、以前、「仲見研のブログ群で取り上げてきた本の2018年ランキング・トップ10~今年の話題を振り返る~ - 仲見満月の研究室」を書いたことがありました。そのランキングを見ると、論文の書き方ガイドや大学院の社会人進学希望者に向けた指南書といった本も入っています。

 

ちなみに、当ブログでは荒木さんのご著書↓

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

 

 をレビューしたことがありました。次の前編・後編の2記事です。

(※『これからのエリック・ホッファーのために』は、ご恵贈いただいたわけではなく、私が興味を惹かれ、個人的に買い、ブログに感想を書きました)

 

こうしたレビュー記事を通じて、ここ最近、荒木さんのご著書を購入された方はおられる様子。上記の記事を公開した2016年だと、もっと、いらっしゃったと考えられます。

 

そのほか、最近、スマホゲームのFGOの影響で、岡田以蔵やサリエーリの伝記を知り、面白そう!と買って読みました。これらの伝記は、今春の新刊同人誌で書き下ろし記事として書評したため、果たして、著者や版元の方には、PRになっているかは数字に表れず、謎です*2。とはいえ、弊ブログを読まれた方の中から、オンライン書店を通じて研究関係の本を購入された人がいらっしゃることは事実です。

 

詰まるところ、SNSやブログを含めた著書のレビューはPR効果はあり、研究関係の本についても同様のことがいえるのではないでしょうか。研究情報の交換にも、「献本」まわりの文化は役立っていると考えたいです。

 

 

3.学術論文の電子公刊の話題~翻訳による学術誌への「二重投稿禁止」問題と論文単体の公刊について~

本記事の2つ目の話題は、主に学術雑誌への投稿論文と翻訳を通じて起こる「二重投稿」問題から始めさせて頂きます。発端の話は、私も院生時代に博士論文の準備をしていて、気づいたことでもあります。Twitterでやり取りした概要は、ざっとこんな感じ。

  1. この頃(2010年代の後半以降?)、中国から米国(の大学院)に留学した人たちが現代中国(の社会等)について研究を進め、統計学を用いて分析した英語の論文がいっぱい出ている
  2. 日本の(現代)中国を対象とする研究者は、どうして、統計学を用いたこれらの英語の論文について、言及しないのだろうか?(細かな地域ごとのテーマを扱うジャーナルにばかり、目を向けるのは、なぜ?)
  3. こうした2の問いには、(やり取りをしていた人たちの偏った見方によると)、日本の中国研究者には、「統計学や数字のデータを扱うのが苦手な人」や、「英語が得意でない人」が少なくない可能性がある
  4. とはいうものの、統計学や数字のデータを扱い、英語にも強い人で、日本語を使い、現代中国を対象に論文を書いたり、ジャーナリスティックな文章を発表したりする人は、日本にも存在する

 

以上のやり取りに加えて、統計学を用いた英語の論文と用い、新たな投稿論文を書く場合、まずは昨今の現代中国を対象とした「●●学のこれから」、「課題と展望」といったタイトルの論文を発表することが考えらえます。いわゆる「レビュー論文」というカテゴリーの論文で、準備段階でたくさんの研究論考を読み、その分野の動向を整理する必要があります。レビュー論文を書くには、一定の研究練度が求められるため、現在の研究や仕事に忙しいベテラン研究者は余裕がなく、レビュー論文を書くことに抵抗があるのではないでしょうか?

 

レビュー論文を含めて、外国語の論文を読み、新しい学術論文を書こうとする際、足かせになるのが、こちら↓

naka3-3dsuki.hatenablog.com

 

ポイントになる箇所について、少し長いですが、下に転載しました。

 

そもそも、何故に「日本語のジャーナルに(日本語で)発表した論文を、外国語の学術誌に(投稿できる言語に)翻訳して「二重投稿」する必要があるのか?」といいますと、2011年あたりツイートでは、

  • 理科系では日本語の論文を原著論文として評価しない習慣がある

という意見が見えます。また、日本の理工系ジャーナルで英語の長い要約が必須のところ、あるいは日本語以外の英語か中国語のサマリーを添えるのが必要な人文科学系の学術誌に、私が投稿した経験からいうと、

  • 今どき、英語または当該分野と関係の深い外国語で研究成果を発表しないと、海外の他の研究者に自分の研究の存在を知ってもらうことすら、不可能である

ことが珍しくありません。現在の日本の多くの学術誌では、例えば、同じ内容の原稿を別々の雑誌に投稿することを「二重投稿」とみなし、それは日本語の原稿を外国語に翻訳して投稿しても「二重投稿」とするところが少なからずあるようです。その逆もまた然りとのことで、「二重投稿」を問題視する背景には、分野によっては「業績の水増し」として判断されることがあり、投稿者(とその人が所属する機関)に対する研究の信頼性が揺らぐことがあると考えられます。

(ほかにも、問題はたくさんあるでしょう)

 

とはいえ、日本の研究者(と特に若手)にとって、コンスタントに外国語で学術論文を発表し続けるというのも、負担が重すぎるのではないでしょうか。そういうわけで、少しずつでも、日本語、外国語のそれぞれの学術誌で規定を確認し、各雑誌の「二重投稿」の規制を緩和したり、変更したりすることで、海外に研究成果を発信しやすくすることが度々、話題になっているようでした。

 

研究者によっては、「むしろ、外国語の論文を日本語に翻訳する習慣をつけて欲しいし、そのための団体を作ってもいいくらい」という意見の方もいらっしゃる模様です。院生の頃、研究に行き詰まった時期に、私は抱えていた研究テーマと関係ありそうな分野の論文を片っ端から読んでいたことがありました。その時期に、何本か読んだ論文には、中国で出ている社会学文化人類学の中国語の学術誌掲載のものを日本語に翻訳し、日本語のジャーナルに掲載したものがあったと記憶しております。それらの翻訳論文は、中国語の原著論文を、翻訳者が日本語に訳して紹介した形であり、こうした場合は原著者による「二重投稿」には当たらないと思われます。

(後略)

 

日本語のジャーナルと外国語の学術誌における「二重投稿」に絡む問題~2018年9月の最終週に気になった話題~ - 仲見満月の研究室

 

転載した内容は、2010年代の前半くらいまでの話で、上記の記事を書いたのが2018年9月の最終週。それより後のここらへんのことは、研究の世界でどうなっているのか、しばらく、(健康上に理由があって)論文投稿をしていない私はよく知りません。

 

本日4月29日の未明、先の「日本語のジャーナルと外国語の学術誌における「二重投稿」に絡む問題~2018年9月の最終週に気になった話題~ - 仲見満月の研究室」の共有ツイートをしたところ、まさに中国語と日本語の学術論文の間で、「二重投稿禁止」の問題にぶつかっておられるらしき方にリプライを頂きました。その内容をまとめると、

「日本側の学術ジャーナルの規則のせいで、中国の研究者が中国語で書いた論文をそのジャーナルに載せたり、自分が中国語で書いた論文の内容を日本語で発信したりしたくとも、「二重投稿禁止」の規則にぶつかる。日本語で研究成果を発表できる場所が限られ、とても辛い」

ということだったように思います。

(ほかにも、いっぱい、「二重投稿禁止」に絡む問題が伺えましたが、ここでは長くなるため、割愛させて頂きます)

 

その後も色々とやり取りをさせて頂いて、ふと、「中国語で中国の雑誌に発表→日本語に翻訳したものを日本の雑誌に投稿の場合、中国史(の分野)の一部では、日本語に翻訳した論文単体を電子書籍し、公刊扱できるのでは?」ということを思い出しました。

 

主に中国史分野の論文について、その取り組みしているのが、合同会社志学社の「志学社論文叢書」です。このシリーズは、志学代表取締役の平林緑萌さんのインタビュー(36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(2/3))によると、「これまで研究者や大学院生でなければほとんど読む機会のなかった(あるいは読むのが困難だった)学術論文を電子化して、amazonなど購入できるようにする、というアイデア」から出発したもの。平林さんは、研究者や院生の間で話題になった面白い紀要論文を読もうと思っても、

現状ではなかなか手軽に読むことはできません。論文が載っている学術誌や紀要そのものを手に入れるか、その要約されているものを見るしかなかったりする。それが研究の妨げにもなるし、また一般の読者が研究に触れる機会を喪失していると感じて

36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)

いたことがありました。さらに、代表取締役

だから、研究者が自分の書いた論文を電子化して、すぐ販売できるような仕組みを作ります。話題になっている論文が電子化されて、それこそ300円ぐらいの低価格で販売されてすぐ読める状態になっていれば、SNS上でバズった時にひと晩で論文が100本売れる……ということもあるんじゃないかと思って

36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)

論文単体を電子化し、AmazonKindleにおいて「志学社論文叢書」として販売を始めました。

 

二重投稿禁止」問題に話を戻しましょう。中国のジャーナルに中国語で発表した論文について、日本の読者に日本語で内容を発信したい場合、志学社のこのシリーズであれば、電子媒体で出版することは可能だと考えました。実際、既に志学社論文叢書には「中国語で発表した→日本語に翻訳して電子書籍で刊行した」論文が刊行されているようです*3

  

先の「献本」まわりの文化に繋がりますが、研究者にとって学術的な著作は、研究情報の交換をするための媒体でもあります。研究情報は、新しい知見にたどり着き、自分の研究を進める材料になる、と。その文脈でいえば、論文を書くほうは、自著を「社会に広めるために出版する」の公刊という方法において、今の時代、Kindleのような電子媒体は選択肢として重要になってくるのではないでしょうか?*4

 

この話題の〆として、次のツイートをまとめに置いておきます。

 

 

 4.最後に

本記事では、第2項で研究者の「献本」まわりの文化について更に掘り下げました。続く第3項では、学術誌の「二重投稿禁止」規則に絡む問題で「中国語で発表した論文→日本語に翻訳して交換したい」場合、問題点を解く選択肢の1つに、志学社論文叢書を例として、論文単体の電子版公刊のお話をさせて頂きました。

 

今回、本記事の全体の振り返って気づいたのは、こうした研究関係や学術出版まわりの話って、まだまだ、自分も知らないことがありそうだということ。荒木さんのように、このあたりの話をオンライン上に言語化して公開されている方、たくさん、いらっしゃると思います。 一方で、こうした話は、本にまとめられていればと感じるところ。

 

そろそろ、学術書の編集や著者に向けたタイトルの本を読む時期かもしれません↓

学術書の編集者

学術書の編集者

 

 

学術書を書く

学術書を書く

 

 

そうそう、志学社の平林さんは、自社の論文叢書の狙いをもうひとつ、インタビューで挙げておられました。

大学院生やポスドクの人でも自分の論文を販売できるような仕組みを作る。そして、その売り上げの何割かは執筆者に還元する。そうすれば彼らの研究資金にもなるし、なによりも、自分の論文が読まれているという実感が、研究の励みにもなるでしょう。

その論文が話題になれば一般向けに書籍化される可能性もあるでしょうし、あるいはその人の研究に必要な資金をクラウドファンディングで集めるための手段にしてもいい。論文販売を媒介として、新たな研究の可能性が拓けていくはずです。

36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)

 

よろしければ、今回の話で触れた本や論文について「ご購入して頂き、お読みいただけたら」と思います。私にとっても、Amazonアソシエイトと通じて、新しい資料本を買う助けとなり、嬉しいです。 

 

おしまい。  

 

  

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*1:私の場合、レビューをする時は「どういう読者や視聴者に対して、各作品が合っているのかな?」といったことを考え、割と率直に書いているほうかと。著者の方や作った側の方が本ブログをご覧になったら、「何じゃ、こりゃ?」と言いたくなることも、書いているかもしれません。

*2:ただ、関連するネットニュースに触れた記事はブログで読め、そこはPRになってるかもしれません↓

naka3-3dsuki.hatenablog.com

naka3-3dsuki.hatenablog.com

 更なる分析が必要そうです。

*3:それらの論文は、こちらです:

祖大寿と「祖家将」再論 中国史編 (志学社論文叢書)

祖大寿と「祖家将」再論 中国史編 (志学社論文叢書)

 

 

以前、清代の文学作品『紅楼夢』に関する論文を読んだことがあって、特に1つ目の論文、私は興味を惹かれました。

*4:「もちろん著作権などの諸々の問題はありますが、それらをクリアしたうえで、大学院生やポスドクの人でも自分の論文を販売できるような仕組み」として、ですが。

36歳の編集者が、市川に「小さな出版社」を立ち上げたワケ(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)

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